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2018年4月30日月曜日

「ガラパゴス」ぶり突出、野党が驚愕の17連休“世界の恥” 政治学・岩井教授「先進国で審議を放棄するケースまずない」―【私の論評】官僚は統治に走り、野党政治家は実行ばかりに注目する国日本の不幸(゚д゚)!

「ガラパゴス」ぶり突出、野党が驚愕の17連休“世界の恥” 政治学・岩井教授「先進国で審議を放棄するケースまずない」

野党6党は、国会審議を欠席しながら、「官僚イジメ」といわれる合同ヒアリングには熱心だ 

 野党6党の「ガラパゴス」ぶりが突出している。大型連休前の27日も衆院本会議などを欠席する「職場放棄」を強行し、驚愕の「17連休」を決定的にしたのだ。同日、南北首脳会談が行われ、朝鮮半島情勢が激動するなか、国会審議を拒否し続けるつもりなのか。欧米の先進国ではあり得ない怠慢行為に対し、識者からは「異常だ」「恥ずかしい」などと批判が噴出している。

 政府・与党は27日の衆院本会議で、今国会の最重要法案と位置づける「働き方改革法案」の審議を始めた。議場に野党6党の姿はなく、その後の衆院厚労委員会も、日本維新の会以外の野党はボイコットした。

 立憲民主党の辻元清美国対委員長は、働き方改革法案の審議入りについて「大型連休前の駆け込みでの審議入りを強行したのは、信じられない」と批判した。

 だが、野党6党は法案と直接関係がない、麻生太郎副総理兼財務相の辞任などを要求して審議拒否している。これらは、海外にも共通する国会戦術なのか。

日本大学の岩井奉信教授(政治学)

 日本大学の岩井奉信教授(政治学)は「野党が演説を引き延ばし、対抗する手法は米国でみられるが、先進国で審議自体を放棄するケースは、まずない。与野党が『議論を尽くし、多数決で決める』ことで合意しているためだ。日本の野党には戦略がなく、時代錯誤も甚だしい。時間とお金のムダであり、有権者の支持は得られないだろう」と指摘する。

 野党が欠席戦術で、法案審議の「時間切れ」を狙う背景には、150日という通常国会の会期も影響しているという。岩井氏が続ける。

 「欧米では、国会が1年以上にわたって開かれ、審議を引き延ばす意味がない。日本は、審議時間をめぐる駆け引きが国会戦術の主要部分を占め、政局につながりやすい。立法府は議論する場であり、通年国会を導入するなど、審議のあり方を見直すべきだ」

 野党の「ガラパゴス」ぶりは、安全保障への「無関心」にも表れている。野党6党が20日に「職場放棄」に走るまで、国会で本格的論戦は交わされず、自衛隊の日報問題ばかりが取り上げられた。

拓殖大学海外事情研究所所長の川上高司教授

 米国事情に精通する拓殖大学海外事情研究所所長の川上高司教授は「米国は、国益を守るために安全保障を重要視し、与野党が異なる立場で真剣に議論を戦わせる。『反対のための反対』に固執する日本の野党とは大違いだ。北朝鮮情勢が予断を許さないなか、今の日本は、海外から『国益を守る議論もせずに、大丈夫か?』と批判されても仕方ない。異常だ。情けない」と話している。

【私の論評】官僚は統治に走り、野党政治家は実行ばかりに注目する国日本の不幸(゚д゚)!

野党は政府の役割は何なのか、おそらく全く理解していないのでしょう。政府の役割につては、以前このブログにも掲載しました。その記事のリンクを以下に掲載します。
ただ事ではない財務省の惨状 同期ナンバーワン・ツー辞任 ちやほやされてねじ曲がり…―【私の論評】統治と実行は両立しない!政府は統治機能を財務省から奪取せよ(゚д゚)!

この記事より、政府の役割に関する部分のみ以下に引用します。

"
経営学の大家ドラッカー氏は政府の役割について以下のように語っています。
政府の役割は、社会のために意味ある決定と方向付けを行うことである。社会のエネルギーを結集することである。問題を浮かびあがらせることである。選択を提示することである。(ドラッカー名著集(7)『断絶の時代』)
この政府の役割をドラッカーは統治と名づけ、実行とは両立しないと喝破しました。
統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。しかも、決定のための機関に実行させても、貧弱な実行しかできない。それらの機関は、実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄い。
 といいます。
"
政府の役割は実行ではなく、“決定”と“方向付け”と“エネルギーの結集”です。そうして、これが統治というものです。

現在の政府は、下部組織として様々な官公庁があり、これらが政府の統治にもとづき実行をするようになっています。しかし、これは必ずしもはっきりと区分されているわけではありません。

実際、日本では官僚が統治の分野まで踏み込んでしまっているというのが、非常に問題です。その中でも、国の財政の実行を司るべき財務省が、本来は政府により実行されるべき日本国の財政の決定と、方向付けとエネルギーの結集という統治の分野にまで踏み込んでいることが、大問題なのです。

実際、財務省は緊縮財政、その中でも特に増税を巡って政府とバトルを繰り広げるなど、統治と実行は両立しない(両立されれば片方もしくは両方が機能しなくなる)という統治の原則を破っています。そうして、過去数十年にわたって、政府も財務省も財政においてまともな成果をあげられていません。

そのせいもあってか、日本のGDPの成長率は未だ韓国以下です。だから、政府は財務省が統治に関わることを禁忌とすべきなのです。この禁忌を破った官僚は、左遷するなり辞任させるなりすべきなのです。

そうして、財務省から統治機能をとりあげ、財務省の中では、財政企画と実行を厳密にわけて別組織にすべきなのです。

このように、日本では官僚が統治をするという間違いが放置されていますが、もう一つ問題なのは、野党が政府の役割である統治を何であるのかを理解していないということです。

政府の役割は日本国を統治することであり、政治の関心は政府の統治に向けられるべきなのです。無論、実行に関して全くノータッチということにはいきません。特に、統治に瑕疵があって、実行に問題が生じている場合は、その瑕疵を是正しなければなりません。

しかし、政治の関心は主に政府の統治に向けられるべきです。そうして、政府の統治が民主的手続きにのっとり、効果的になるようにしなければなりません。それが、政治家の本来の仕事です。

しかし、最近の野党の行動をみていると、これを全く理解していないのではないかと思います。

まずは、野党6党は、国会審議を欠席しながら、「官僚イジメ」といわれる合同ヒアリングには熱心であるという本末転倒の行動をしています。

合同ヒアリングに出て来るのは、財務省の課長クラスです。この人たちは、財務省の幹部クラスの官僚から指示を受けて、財政の実務を実行する際の責任者であり、この人たちからヒアリングをしたり、イジメてたとしても、これは政府の統治とは直接関係ありません。

考えてみると、最近の野党は統治とは全く関係ない、実行にばかり注目して、その実行に関して瑕疵はないかと追求し、批判するばかりで、統治には全く目が向いていません。

考えてみると、保育園の問題も実行レベルの問題です。保育園の問題は政府レベルの問題ではなく、地方自治体の実行レベルの問題です。これは、とても政治の本質に関わる問題とはいえません。

保育園の問題でも、実行レベルにだけ目を向けるのではなく、幼児教育に関わる“決定”と“方向付け”と“エネルギーの結集”について、議論をして、これらが効果的に実行されるように法律案を提出することが、政治家の本来の仕事であるはずです。

考えてみれば、森友問題、加計問題なるものもそうです。これも、本来政府の統治ではなく、実行に関わるものです。無論実行に関わるものも、何か瑕疵があった場合、それが政府の統治の瑕疵に原因がある場合もありますから、実行に関して一切関わるべきではないとはいいません。

しかし、結局のところ過去一年以上かけても、安倍総理や昭恵夫人をはじめとして、政府からは誰も責任をとって辞任するという事はありませんでした。あったのは、文書書き換えに関して佐川氏が辞任したのと、最近福田氏がセクハラ問題で辞任したくらいです。未だに、政府の統治レベルの問題にはなっていません。

これらは政府の統治に関わるものではなく、あくまで近畿財務局や文部省などの実行に関わる分野の問題です。自衛隊の日報問題も同じことです。これも、政府の統治に関わるものではなく、あくまで実行に関わるものです。

先程述べたように、政治家の本質は、政府の統治に関わることが本質です。

日本では、官僚が統治に走り、野党の政治家が、こぞって実行にばかり目を向けるということが恒常的に行われています。

それによって、何が国民にもたらされたかといえば、お粗末な財政政策により、結局GDPの伸び率が韓国に劣るような状態をもたらし、過去の国会は本質的ではない「もりかけ問題」で1年以上も無駄な時間が費やされてしまいました。

それに追い打ちをかけるように、野党は「職場放棄」を強行し、驚愕の「17連休」を決定的にしてしまいました。

野党の皆さんには、言いたいです。こんなことを続けるなら、政治家はやめるべきです。そうして、市民運動家になるべきです。それも、「〇〇反対運動」などの左翼系市民運動などではなく、社会の矛盾を是正したり、社会のニーズやウォンツを探り出しれそれに対処するようなNPOなどをたちあげて、社会実行レベルの様々な分野での社会事業で成果をあげて下さい。



たとえば、まずはある都市で、政府や自治体の力も借りながら、新しい画期的な保育園の管理手法を開発し、本当に保育園に行かなければならない幼児が行けなくなるという状況を防ぐ方法を開発して下さい。これが開発できれば、他の都市に広めて下さい。

そうして、全国にそれを広めるのです。このようなことは、本来政府や自治体が直接手をかけるよりも非営利事業(NPO)が取り組んだほうが成果をあげやすいです。

「審議拒否」など頻繁にして、国民に馬鹿にされ疎まれる存在になるくらなら、社会事業家になって具体的に社会の矛盾などを是正する仕事をしたほうが、政治家として軽蔑されるよりも、多くの人から尊敬され充実した人生が送れます。

何よりも、選挙で落ちることを心配する必要もなくなります。

【関連記事】

2018年4月26日木曜日

高橋洋一の霞ヶ関ウォッチ 野党は審議拒否でなく法改正対応案を提出すべき―【私の論評】野党は本来政府の統治を監視し間違いがあれば正すべき存在(゚д゚)!

高橋洋一の霞ヶ関ウォッチ 野党は審議拒否でなく法改正対応案を提出すべき

先日、あるラジオ番組に出演した。といっても、スタジオには行かずに、10分弱の携帯電話での出演なので、気楽に対応できる。

案件は、財務省の福田事務次官(当時)の辞任に関することだった。

野党6党合同ヒアリング

今の国会の惨状は見かねる

  まず、福田事務次官の退職金5300万円が高すぎないかというスタジオのコメンテーターからの問いかけだ。筆者は、その感想は人によって違うだろうが、退職金計算は法律によって決められていると答えた。筆者は高すぎるとの答えを期待されていたようだが、元官僚らしい事務的な答えにスタジオは意表を突かれたようだった。

  次に、今回のような不祥事に対して、何かすべきことはないかという問いだった。筆者は、20年前に「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」があって、そのときには、大蔵省解体といって、当時の大蔵省から金融行政部門が分離されたといった。

ノーパンしゃぶしゃぶで一躍有名になった「楼蘭(ローラン)」のパンフレット
写真はブログ管理人挿入 以下同じ

   それに対し、そうした意見がなぜ今の財務省の内部から出てこないのかと聞かれた。そのコメントを聞いたとき、組織解体論はその組織から出てくるはずがないだろうと思ったが、ラジオでの答えは、そうした官僚組織の対応は法改正によって行うので、立法府である国会議員がやるべき仕事であるといった。その答えに、スタジオは納得していない雰囲気だったので、今の国会では、野党は(維新を除いて)審議拒否している。官僚の不祥事に文句をいうには、法改正案を提出して対応すべきといった。

   正直いって、ラジオ番組の雰囲気になじまなかったのかもしれないが、今の国会の惨状は見かねる。

野党6党合同ヒアリングは「パワハラ」か

    吉村洋文・大阪市長が24日午前の衆院厚労委に参考人として出席したが、野党6党は審議拒否で欠席した。先日も、国会で参考人を呼んでおきながら、野党6党は参加しなかったが、これは忙しい中で出席している参考人に失礼だろう。

吉村洋文・大阪市長

   野党6党は、麻生財務相の辞任などを要求して審議拒否なのだが、驚くべきは自らが共同提出した生活保護法改正案の審議も拒否している。これは、立法府の国会議員としての自己否定になる暴挙だ。

    国会議論を拒否しながら、野党6党合同ヒアリングを開き、そこに官僚を呼びだして、連日つるし上げている。

   そこに出席している官僚は、国会で政府参考人として答弁する局長レベルではなく、答弁できない課長レベルの人だ。当然のことながら、彼らが役所から与えられている発言権は極めて小さいので、同じ答弁を繰り返さざるをえない。野党6党は、相手の官僚が同じことを繰り返しまともな反論ができないことを知りながら、罵倒している。

   この光景はテレビでごく一部は報道されるが、ネット上では全体が流れている。全部を見たら、1時間ほどの野党議員による官僚への「パワハラ」に見えなくもない。

    財務省不祥事にはいいたいことが山ほどあるのは理解できる。財務省解体、消費増税ストップなど筆者もいろいろな意見がある。国会議員は、そうした意見を立法によって実現できる。

    国会での審議拒否ではなく、まともな法改正対応案を国会に提出して、国会議員としての職務をおこなうべきである。国会場外で答弁能力のない下っ端官僚を怒鳴るより、国会において対応法案を提示し大臣と議論して欲しい。

++ 高橋洋一プロフィール
高橋洋一(たかはし よういち) 元内閣参事官、現「政策工房」会長
1955年生まれ。80年に大蔵省に入省、2006年からは内閣参事官も務めた。07年、いわ ゆる「埋蔵金」を指摘し注目された。08年に退官。10年から嘉悦大学教授。著書に 「さらば財務省!」(講談社)、「『年金問題』は嘘ばかり」(PHP新書)、「大手新聞・テレビが報道できない『官僚』の真実」(SB新書)など。

【私の論評】野党は本来、政府の統治を監視し間違いがあれば正すべき存在(゚д゚)!

この野党の審議拒否に関しては、テレビ報道でも批判されています。本日バイキングを見ていたら、さすがに野党の審議拒否に関しては否定的なコメントがなされていました。

さらに、驚くべきことに、野党の議員は午前中には、審議拒否をしながら、午後の園遊会にはちゃっかり参加している野党議員が大勢いたことが明らかになりました。

自民党の宇都隆史参議院議員のFacebookのコメントを以下に掲載しておきます。
春の園遊会、午前中までの土砂降りが嘘のように、晴れ間が見えました。両陛下の御健康と皇室の弥栄を祈念申し上げます。 
しかし、午前中の本会議も審議拒否、国会議員としての本分を放棄しているにもかかわらず、園遊会にはちゃっかり出て来て飲み食いする野党議員の数々…諸君、お天道様に恥ずかしくはないかい?

通常の神経なら、園遊会の参加は見合わせても国会の審議には出席するというのが常識だと思います。したがって、国会を審議拒否で出席しないというのなら、園遊会への参加も見送るべきでしょう。

もう野党議員は、次の選挙では当選するかどうかもわからないので、議員である間に議員として享受できる名誉、特に天皇陛下臨席の園遊会には何が何でも参加したいということでしょうか。

本来なら審議拒否などしないで、国会審議に参加した上で、園遊会にも参加すべきだったでしょう。

これは、常識を疑う行為ですが、そもそも野党の議員らは、政府や国会の役割など全く理解していないのではないでしょうか。

先日もこのブログに掲載したことですが、政府の仕事の本筋は日本という国の統治です。実行することは、本筋ではありません。これに関しては誰も否定できないでしょう。これを否定するような人は、そもそも政治を語る資格がありません。

しかし、「統治」とは一体何をすることなのかと、問われるとすぐに答えらない人もいるかもしれません。これは、社会の中であらゆる組織において実際に「統治」に関わる人の数が圧倒的に少数だからだと考えられます。それに、学校などでもまともには教えられていません。

一般的な辞書の定義だと統治とは、「特定の少数者が権力を背景として集団に一定の秩序を付与しようとすること。政治とほぼ同義に用いられることが多いですが、厳密に解すれば、統治は少数の治者と多数の被治者との分化を前提とし、治者が被治者を秩序づけることを意味するのに対して、政治は、少なくとも、対等者間の相互行為によって秩序が形成されることを理想としている」などと定義されています。

しかし、これでは「統治」の本質をあらわしていません。特に政府の役割としての「統治」をあらわしていません。この政府の役割としての「統治」については、以前もこのブログに掲載したことがあります。その記事のリンクを以下に掲載します。
ただ事ではない財務省の惨状 同期ナンバーワン・ツー辞任 ちやほやされてねじ曲がり…―【私の論評】統治と実行は両立しない!政府は統治機能を財務省から奪取せよ(゚д゚)!

詳細は、この記事ご覧いただくものとして、この記事から政府の役割としての統治に関する部分のみを引用します。

"
経営学の大家ドラッカー氏は政府の役割について以下のように語っています。
政府の役割は、社会のために意味ある決定と方向付けを行うことである。社会のエネルギーを結集することである。問題を浮かびあがらせることである。選択を提示することである。(ドラッカー名著集(7)『断絶の時代』)
この政府の役割をドラッカーは統治と名づけ、実行とは両立しないと喝破しました。
統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。しかも、決定のための機関に実行させても、貧弱な実行しかできない。それらの機関は、実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄い。
 といいます。
"
野党はこの政府の役割である「日本国の統治」ということをほとんど理解していないのだと思います。だからこそ、高橋洋一氏が指摘するように「野党6党合同ヒアリングを開き、そこに官僚を呼びだして、連日つるし上げている。 そこに出席している官僚は、国会で政府参考人として答弁する局長レベルではなく、答弁できない課長レベルの人だ」のようなことをしているのです。

財務省の課長レベルの人は、あくまで実行をする部隊であって、統治とは直接関係ありません。本来政府の「決定と方向付け」に従い、実行をする人です。

ただし、財務省に問題がないとはいいません。しかし、その問題の本質は野党が批判する、文書書き換えやセクハラなどの問題ではありません。これは、実行に関する問題であって、統治に関する問題ではありません。だからといって、一切無視するなともいいませんが、これは明らかに本筋ではないのです。

財務省の問題の本質は、財務省が中途半端に「統治」をしていることです。特に財政に関して政府の決定に従うのではなく、「増税」の意思決定をしたり、「緊縮財政」の意思決定をして、それを実行しようとして官邸とバトルをしたり、マスコミや国会議員、識者などの働きかけるなどの明らかな越権行為があるということです。

日本などの民主的な国家においては、国の統治は選挙という民主的な手続きを経て議員となった人から構成される政府によって行われるべきものです。選挙という民主的な手続きを経ていることが、「統治の正当性」を保証するのです。

しかし、官僚は選挙を経てなるものではないので、統治の正当性はないのです。本来統治してはいけないのです。彼らが行うべきは統治ではなく、実行なのです。マックス・ウェバーが指摘していたように、官僚組織は、すでに決まったことを効率よく実行するための組織なのです。

財務省が実質的に財政の方向性を定めるような統治機能の一部を担い、統治と実行を両立させようとするがゆえに、統治能力が麻痺し、デフレの真っ只中において増税するなどの方針を定めるなど、まともな財政政策ができなくなるのです。

野党は、このような統治に関することを問題とするのでなく、実行レベルの問題ばかり追求し、政府を批判します。実行レベルの問題は、本筋ではありません。本来ならば、財務省が中途半端に統治をしている実体を批判すべきです。

そうして、それは国会の審議の場で、財務大臣や政府を相手に批判すべきなのです。そうして、批判するだけではなく、実際に財務省が中途半端な統治を行っていることにより、政府の統治に瑕疵(かし)が生じている実体を明らかにし、それを防ぐ手立てとしての法律の改定や新設を政策案とともに提案すべきなのです。

無論、政府も財務省から中途半端な「統治の機能」を取り上げるべきなのです。野党は、政府を批判するなら、実行レベルの事柄を批判するのではなく、財務省から「統治の機能」を取り上げることをしない政府と統治機能を堅持しようとする財務省の官僚を批判すべきなのです。

民主主義体制下の国会議員の仕事の本質は、政府が民主主義的な手続きにのっとり統治ができるようにするために、監視をしたり、瑕疵(かし)があればそれを正すために法律案を出したり、政策案を出すことです。野党は本来政府の統治能力の問題を批判し正すべき存在のはずです。

しかし、野党の議員を責めているだけでは、何の問題の解決にもなりません。実際、今の彼らの大部分は選挙に勝つための選挙互助会を求める烏合の衆に過ぎず、まともにものを考えられないようです。だから、頓珍漢な行動をとっていても自分たちは気づかないのです。

本当に必要なのは以前このブログにも掲載したことのある、立憲主義(ブログ管理人注:立憲民主党とは関係ありません。むしろ立憲民主党こそ、立憲主義から程遠い存在です)に基づいた政府の統治能力を強化する、政治システム改革なのです。これを実行しなければ、今日の日本の政治の問題はいつまでたっても解決することはなく、同じようなことが何度でも繰り返されることになります。

この問題は短期で解決できるものではないです。少なくとも、安倍政権には方向だけは定めていただきたいものです。

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2018年4月24日火曜日

ただ事ではない財務省の惨状 同期ナンバーワン・ツー辞任 ちやほやされてねじ曲がり…―【私の論評】統治と実行は両立しない!政府は統治機能を財務省から奪取せよ(゚д゚)!

ただ事ではない財務省の惨状 同期ナンバーワン・ツー辞任 ちやほやされてねじ曲がり…


財務省は、公文書改竄(かいざん)問題の発覚や、セクハラ疑惑で事務次官が事実上更迭されるなど、騒ぎになっている。

 森友学園問題は、本コラムで指摘しているように、もともとは近畿財務局の事務的なチョンボである。大阪航空局が騒音対策の名目で取得した土地について、公共用として東半分を大阪府豊中市に実質2000万円で売却したのはよかったが、西半分は入札にすべきだった。

 それを怠ったために、地中ゴミなどを理由に値引きを余儀なくされ、その合理性が問われることとなった。入札しておけば、2000万円程度で落札されたはずで、値引き問題は生じなかったはずだ。

 ここまでは地方組織にしばしば見られる話であり、その経緯を十分に知っていれば国会で答弁するのはそれほど難しくない。それなのに、不勉強のまま国会答弁した上、決裁文書の改竄にまで手を染めてしまっては言い逃れができない。当時の理財局長だった佐川宣寿(のぶひさ)・前国税庁長官は辞任した。国会を甘く見ていたのだろう。

 福田淳一事務次官のセクハラ疑惑については、福田氏が否定発言をした後、財務省は委託先の弁護士事務所で調査を行うという対応を行った。否定発言は許されるが、もし調査するのなら、しっかりとした第三者機関(例えば内閣人事局)で行うべきだった。福田氏の在任期間はせいぜい6月までなので、行政の混乱を回避し、身の潔白のために裁判をするといって早期に辞任すべきだった。その後は裁判で明らかにするといえばいい。

 ただ、セクハラ疑惑については、福田氏が辞任会見の際に、裁判で決着させる意向を示しており、現段階で予断を持つべきではない。辞任会見後、テレビ朝日の女性社員が当事者であると同社が明かした。もっと早く報道すべきだったが、週刊新潮の報道による福田氏への名誉毀損(きそん)が成り立つのは、音声テープが捏造(ねつぞう)であるか、貶(おとし)めるための策略かを次官側が証明しなければいけない。いずれにせよ事実解明に今後ひと波乱あるかもしれない。

 佐川氏も福田氏も昭和57(1982)年入省組の財務省キャリアである。同期のナンバーワンとツーがほぼ同時に辞任とはただ事ではない。この期はかつての「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」の時、1人が逮捕され、1人が辞職している。その前には1人が自殺、1人が病死している。こうしたことから「呪われた期」ともいわれている。

57年入省組の記念写真 佐川氏、福田氏の他片山さつき氏も・・・・・
写真はブログ管理人挿入 以下同じ

 単なる巡り合わせだろうが、財務省の絶大な権限が、善良だった彼らをねじ曲げているようにも思える。

 財務省で仕事をすると、政治家に限らずほとんどの人からちやほやされる。筆者が入省時には、「多くの人がきみに頭を下げるが、きみ本人にではなくきみの地位・座席に頭を下げるのだ」と言われたものだ。

 財務省の権限はあまりに大きすぎる。金融行政を分離したが、国税庁を植民地化していることで、財務省へ文句を言いにくくなっているとしたら問題だ。「李下に冠を正さず」とするために、財務省改革、特に歳入庁創設が必要だ。(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)

【私の論評】統治と実行は両立しない!政府は統治機能を財務省から奪取せよ(゚д゚)!

経営学の大家ドラッカー氏は政府の役割について以下のように語っています。
政府の役割は、社会のために意味ある決定と方向付けを行うことである。社会のエネルギーを結集することである。問題を浮かびあがらせることである。選択を提示することである。(ドラッカー名著集(7)『断絶の時代』)
この政府の役割をドラッカーは統治と名づけ、実行とは両立しないと喝破しました。
統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。しかも、決定のための機関に実行させても、貧弱な実行しかできない。それらの機関は、実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄い。
 といいます。
しかし、ここで企業の経験が役に立ちます。企業は、これまでほぼ半世紀にわたって、統治と実行の両立に取り組んできました。その結果、両者は分離しなければならないということを知ったのです。
企業において、統治と実行の分離は、トップマネジメントの弱体化を意味するものでありませんでした。その意図は、トップマネジメントを強化することにありました。
実行は現場ごとの目的の下にそれぞれの現場に任せ、トップが決定と方向付けに専念できるようにします。この企業で得られた原則を国に適用するならば、実行の任に当たる者は、政府以外の組織でなければならないことになります。
政府の仕事について、これほど簡単な原則はありません。しかし、これは、これまでの政治理論の下に政府が行ってきた仕事とは大いに異なります。
これまでの理論では、政府は唯一無二の絶対の存在でした。しかも、社会の外の存在でした。ところが、この原則の下においては、政府は社会の中の存在とならなければならないです。ただし、中心的な存在とならなければならないのです。
おまけに今日では、本来は不得手な実行を政府に任せられるほどの財政的な余裕はありません。時間の余裕も人手の余裕もありません。ただし、これは財務省のいうように、現在の日本が財政的に危機にあるということを言っているのではありません。あくまで、一般論です。政府が実行に拘泥すれば、無駄な資金が消えていくことになるということです。
この300年間、政治理論と社会理論は分離されてきた。しかしここで、この半世紀に組織について学んだことを、政府と社会に適用することになれば、この二つの理論が再び合体する。一方において、企業、大学、病院など非政府の組織が、成果を上げるための機関となる。他方において、政府が、社会の諸目的を決定するための機関となる。そして多様な組織の指揮者となる。(『断絶の時代』)
さて、これは政府の最終的なあり方を語っているのですが、現状はそうはなっていません。しかし、参考にすべきことはあります。

現状の財務省は、大きな権限を持っていますが、そうはいっても本来は政府の下部機関であることには変わりありません。

以前からこのブログにも掲載しているように、財務省には統治にかかわる部署と実行の部署が存在します。これは、どう考えても完全分離しなければならないのです。

それについては、以前もこのブログに一部掲載したことがあります。その記事のリンクを掲載します。
安倍首相退陣なら日本経済は悪化する…石破or岸田政権発足→景気悪化の悲観シナリオ―【私の論評】ポスト安倍政権がまともな経済政策を実現するには財務省完全解体が必須(゚д゚)!
安倍総理は財務省解体まで踏み込めるか・・・・・
詳細は、この記事をご覧いただくものとして、財務省解体の部分を以下に引用します。
利権が絡む現場の仕事に政治的裁量が働く余地があってはならないはずです。必要なら、法に従って淡々と資産を売り払っていけば良いだけです。そうであるなら、理財局を財務省から切り離したうえで、財務局の担当部署と統合し「国有財産管理部局」にして、国土交通省などに統合すべきではないでしょうか。 
同じように、税制の企画立案をする主税局と徴税執行業務を担う国税庁が同じ財務省の組織にある理由はありません。国税庁は外局とはいえ、事実上、財務省と一体です。かねて指摘されてきたように、年金保険料の徴収業務と国税庁の徴税業務を一体化した「歳入庁」の設立をすべきです。 
理財局といい国税庁といい、そもそも現場の執行業務をする財務局や税務署を政策立案を担う高級官僚が指揮監督する仕組み自体がおかしいです。政策立案と現場が一体となっているからこそ、政権の意向を官僚が忖度して現場が振り回されるような疑惑が生じてしまうことになります。 
以上のような改革を断行すると、財務省は予算編成をする主計局と税制の企画立案をする主税局、関税制度の企画立案をする関税局、通貨政策を担う国際局、大臣官房だけになります。全部、政策立案部局です。そのほうが現場と切り離されて、よほどすっきりします。 
そうして、以前からこのブログにも掲載してきたように、大蔵省という官庁は、単純に分割すると、時間をかけて他省庁を植民化するという性癖があるので、主計局、主税局、関税局、国際局、大臣官房(内閣官房に吸収)はすべて内閣府の中に吸収してしまうという方法が有効であると考えます。
以上のように、実行と統治の部分を厳密に分離するのです。そうして、この記事では掲載しなかった 主計局、主税局、関税局、国際局、大臣官房(内閣官房に吸収)はすべて内閣府の中に吸収することの意味は何かとえば、それは企画と統治を更に完璧に分離するということです。

企画と統治とは全くの別物です。統治とは、ドラッカー氏のいうように、「社会のために意味ある決定と方向付けを行うこと」です。方向付けと、企画は違います。

企業等の組織に所属する多くの人々が、実行部門に携わることが多いので、企画と方向付けを同じように考えてしまう人も多いです。しかし、もともと企画とは方向付けがあって、その方向付けにしたがって当面具体的にどうするかを考えることです。その意味では企画でさえも、実行の一部といえます。


企画と統治は全く別物・・・・・・

今の財務省は、中途半端に統治と実行を行っています。政治家やマスコミなどが、財政に詳しくないことや、多くの経済学者などの識者が財務省の言いなりであるため、財務省が増税や緊縮財政など方向性(これは本来は政府の統治機能)を省益にそってに定めて、実行までしてしまっているのです。これこそ、諸悪の根源なのです。

このようなことはもうやめて、主計局、主税局、関税局、国際局、大臣官房(内閣官房に吸収)はすべて財政企部門として、内閣府の中に吸収し、これらの機関は企画のみに集中させるのです。

あくまで、政府が統治としての、方向付けを行い、それをもとに内閣府の中の財政企画部門が企画を立案し、それを政府が承認し、それを実行部隊が実行するのです。このようなことを政府が行えるようにするには、政治家が勉強するとともに、政策を立案するシンクタンクも必要になります。これもいずれ設置すべきでしょう。

そうして、私としては、これでも政府の仮の姿であると考えます。政府の理想形は、ドラッカーの語るように"社会のために意味ある決定と方向付けを行うことである。社会のエネルギーを結集することである。問題を浮かびあがらせることである。選択を提示することである"のであり、その他はすべて他の機関が行うようにすべきと思います。

他の機関としては、営利部門は、すでに営利企業が行っていますが、非営利部門に関しては非営利企業(NPO、NGO等)が担うべきなのです。そうして、政府はこれら非営利企業を厳しく監視して、成果のあげられない非営利企業に関しては淘汰すべきなのです。

このあたりは、NPO等が財務省いう財政民主主義なる主張によって、日本では矮小化されているため、日本ではなかなか理解されないところです。西欧だとかなり理解されています。このあたりは述べると長くなりますので、別の機会に述べさせていただきます。

統治と実行の分離は、民間の大企業ならすでに実行されていることです。ただし、大企業に属する人でも、統治に関わる人はトップマネジメントであり、少数に限られますし、中小企業や小規模企業だと、程度の差はありますし時期にもよりますが、企業の仕事のほとんどが実行であり、統治の割合はかなり低く、それこそドキュメント化されることもなく、経営者の頭の中で行われていることが多いです。

だから、企業は無論のこと政府の統治機能についてもあまり一般の人に理解されていません。学校でもあまり教えられていないようです。大企業でもこれを理解しないトップマネジメントが存在し、度々不祥事を起こしています。

理想的な政府を目指すなら、まずは財務省の解体により、現在の財務省の統治企画部門と実行部門を完璧に分離し、現在の財務省の統治機能は、財務省から完璧に切り離し政府が担うようにすべきなのです。そうして、なぜ最初に財務省なのかといえば、改革ということでは、財務省が本丸だからです。最初に財務省を改革してしまえば、後は右に習えです。

そうして、私は現在の財務省が堕落した真の要因は、誤った組織設計や制度設計にあるのであり、ある意味官僚は犠牲者でもあると思います。まさに、高橋洋一氏が言うように、財務省の絶大な権限が、新卒の時には希望に萌えた善良だった彼らをねじ曲げているのです。

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2017年9月17日日曜日

予算編成「100兆円超え」は財政危機のシグナルではない―【私の論評】財務省には日本国を統治する正当性はない(゚д゚)!


裏には財務省の思惑が

われら富士山、他は並びの山」――。東大法学部卒のエリートが集う霞が関で、
財務省は大蔵省時代から他省庁を見下ろしながら「最強官庁」を自任してきた。
 予算復活」で恩を売る
2018年度の概算要求は、4年連続で「100兆円超え」になることが確実視されている。高齢化による社会保障費の増額は不可避で、北朝鮮問題を背景に防衛費の増額案も出ているからだ。'18年度の予算編成について、どう見るのが正解なのだろうか。

本題に入る前に、予算が決定するまでのプロセスを確認しよう。一般会計でいえば、まず夏頃に各省庁から財務省に向けて概算要求が行われる。財務省はそれを12月末までに精査して、予算の政府案を作る。

その政府案は、翌年1月からの国会で審議され、3月末までに成立して当初予算となり、4月から予算が執行されるのだ。

実は'01年度から'17年度まで、当初予算は、概算要求をおおむね4%程度カットした水準で調整するよう決められていた。ちなみにリーマンショックに対応しなければならなかった'09年度は例外である。

しかし、ほとんどの年度において当初予算では足りない。だから年度途中に補正予算が作成され、当初予算への上乗せによる修正が行われている。その場合の歳出総額は、'09年度と東日本大震災があった'11年度を除き、もとの概算要求と同じ水準になっているのだ。わざわざ当初予算で概算要求を4%カットしているのにもかかわらず、である。

なぜこうなるのかといえば、やはり予算を絞り込みたい財務省の「職業病」によるものだ。だが「財政の健全化のために予算削減をしている」というのは財務省の建て前で、実際のところは当初予算で絞り、補正予算で復活させることで要求官庁が「恩義」を感じるように仕組んでいるだけなのだ。

もちろん「恩義」のお返しには、要求官庁傘下の機関への天下りがあることを忘れてはいけない。

    さも「財政再建」が進んだかのように
もっとも、直近の'15年度と'16年度では、当初予算で約5%カットに対して、補正予算では約3%の修正にとどまった。最終的に2%カットと、徐々に財務省は「渋ちん」度を増してきている。

今年度も秋の臨時国会で補正予算が審議されるが、'17年度は概算要求と当初予算を比べると、これまでの経験則通りに4%カットだった。最終的な予算総額が'15年度と'16年度並みの2%カット水準であればどうなるか。

'17年度の概算要求は101・5兆円だったので、概算要求の2%カットだと99・5兆円。当初予算は97・5兆円だったので、補正予算は2兆円程度に留まる。

もしこの通りになれば、'17年度予算は補正込みで100兆円を切ったという報道が各メディアで出ることになるだろう。

ここからひとつ言えることは、今回の'18年度概算要求について、「100兆円」をキーワードとしているのは、実は、秋の臨時国会で審議される予定の'17年度補正を意識しているということだ。もし100兆円を切れば、さも財務省による財政再建のシナリオが前進したかのような格好になる。

'18年度の概算要求に関する報道の見出しは、まさに「100兆円」のオンパレードだった。だが4年連続で起きていることなので別段珍しいことではないし、「100兆円」が財政危機のボーダーというわけでもないことはわきまえておきたい。

【私の論評】財務省には日本国を統治する正当性はない(゚д゚)!

ブログ冒頭の記事では、財務省は日本経済の状況とは全く関係なく、財政政策を決めていることが書かれています。このようなことで良いのでしょうか。

高校の「経済社会」の教科書でも、国の財政政策はどうなっているのでしょうか。まずは、以下に「GDPギャップ(需要と供給のギャップ)」の推移のグラフを掲載します。



このグラフは、内閣府が公表しているGDPギャップの、バブル崩壊時の1990年以後の推移を示しています(青線)。

ご覧のように、1997年の消費増税以前においては、「プラス」のこともあったのですが、増税以後、基本的にずっと「マイナス」基調となっています。これは、97年の増税前までは、「需要が供給よりも多い」状況もあった一方、97年の増税後は「需要の方が供給よりも少ない」という「需要不足」状況になっていることを意味します。

その後、2000年代中盤に一時期、(需要の方が多い)「プラス」となったこともあるのですが、08年のリーマンショックのときに大幅に「マイナス」の需要不足となり、その後、回復してきているのですが、やはり基本的には「マイナス」の需要不足状態が継続しているのが実態です。

さて、先ほど述べた論理を踏まえると、GDPギャップが「マイナス」(=需要不足)の時にはデフレになって「物価が下がり」、逆に「プラス」(=需要過剰)の時にはインフレ、つまり「物価が上がる」こととなります。

したがって、GDPギャップの推移と、物価の変化率の推移は、基本的に「連動」することが予想されます。

このグラフには、その点を確認する意味で、物価(=CPI)の変化率の推移も掲載しています(黄色の線)。なお、この黄色の線は、その時点での数値ではなく、「半年後」(二四半期後)の数値です。

ご覧のように、青い線(GDPギャップ)が上がれば黄色い線(物価変化率)もあがり、逆に前者が下がれば後者も下がる、という形で、連動している様子が見て取れます。

つまり、今、政府が公表しているGDPギャップは、理論的に予測される通り、「半年後」の物価の変化率を「予測」する、あるいは「決定づける」力を持っているわけです。


なお、一点補足すべきは、「消費税率の増加」は、GDPギャップとは別に、物価そのものを上げる効果を持つ、というもの。

そもそも、消費増税は、モノの値段を一律2%や3%上げるのですから、当然、景気がよかろうが悪かろうが、強制的にCPI(物価)を上げる効果を持っているのです。

したがって、97年や2014年にCPI(物価)の変化率が大きくプラスになっていますが、これは、消費増税による見かけ上の効果だ、ということになります。ですので、その点を加味すると、GDPギャップと物価(CPI)変化率との間の連動性は、より一層強いものであることがわかります(特に、2014年の増税時、物価の変化率が急激に一時的に大きくなっていますが、この「山」がないと考えれば、黄色線と青線はよりはっきりと連動していることがわかります)。

なお、両者の相関係数(完全連動の場合1、完全不連動の場合0の尺度)は、0.72という、非常に高い水準にありますから、両者の関係はやはり統計的に言って明白だと言えます(なお、消費増税の効果を除去すれば、さらに高い水準となります)。

ところで、「理論的」に言うなら、GDPギャップ(デフレギャップ)をゼロにすれば、デフレは終わるはず、ということになります。

しかし、このグラフを見れば一目瞭然なとおり、GDPギャップが「プラス」の時(例えば、2006年、2007年ごろや2014年)でも物価の変化率は「ゼロ」ないしは「マイナス」であったりします。

それは、内閣府によるGDPギャップの測定の仕方に、問題があるからです。これは青木泰樹先生が繰り返し主張しておられる通りです。

『2つの潜在GDP』https://38news.jp/archives/03897
『「潜在GDP」を「平均GDP」へ改称すべし』https://38news.jp/economy/10751

詳細は上記記事に委ねますが、今、政府が公表しているGDPギャップは、「本当に日本経済が持っている供給能力」を基準に測定されているのでなく、「実際の能力よりも低い能力」を基準にして測定されていることが原因です。

しかし、こうした、理論的には特殊、あるいはオカシしな「GDPギャップ」指標ではあるのですが、それでもなお、上記グラフのように物価の変動を予測する、あるいは決定づける力を持っているのは、事実です。

では、物価(CPI)の変化率と、GDPギャップとの間にどんな関係があるのかを、統計的に(重回帰)分析 してみると、次のような関係式が示されました(1990年第一四半期から2997年第一四半期までのデータを使用)。
半年後のCPI変化率
= 0.28×GDPギャップ + 0.117 - 0.02×seq(※)
__(6.33)__________(9.43)__(-2.21) 
※ seq: 1990第一四半期が1の連続自然数。( )内はt値、R値は0.71、n=105. 
※ データはいずれも四半期のものなので、年率換算の比率は上記数値と一致。
これはつまり、CPIを年率1%上げるためには、GDPギャップを年率で3~4%程度大きくすることが必要だ、という事を意味しています。

そしてGDPギャップを3~4%大きくする、ということはつまり、需要を15~20兆円(年)程度を拡大するということです。

ということは、単純に考えれば、政府支出を15~20兆円程度拡大すれば、CPIは1%上昇する、ということになります。

実際には、乗数効果(政府支出を1兆円増やせば、GDPは1.5~2兆円程度増える、という効果)があることを考えれば、10~15兆円の政府支出を拡大すればCPI、物価は1%程度上昇するだろう、ということが予期できます。

そして言うまでもありませんが、物価が上がらなければ、賃金も増えず、ビジネスチャンスも拡大せず、投資は冷え込んだままとなり、デフレ不況は終わりません。

だからこそ政府は今、10~15兆円規模の大型の補正予算を組むことが、デフレ脱却のために是が非でも求められているのであり、それは、内閣府自身が公表しているデータから統計的に示唆されているのです。

そして、日銀のターゲットが「2%物価上昇」であることを踏まえるなら、そのクラスの大型景気対策を、少なくとも2、3年間は継続することが必要なのです。だから、同感が考えても、今秋以降の補正予算は、最低20兆円(単年度の場合は)、少なくとも10兆円(この場合は来年度も実行する)が必要なわけです。

しかし、ブログ冒頭の記事にもあるように、このようなことには全くおかまいなしに、'17年度の概算要求は101・5兆円だったので、概算要求の2%カットだと99・5兆円。当初予算は97・5兆円だったので、補正予算は2兆円程度に留まるようにするのが、財務省の意向です。

ちなみに、高橋洋一氏も「20兆円財政出動」で物価目標2%達成可能としています。その記事のリンクを以下に掲載します。
安倍改造内閣が問われる「20兆円財政出動」で物価目標2%達成

詳細は、この記事をご覧いただくものとして、需給ギャップからみて、今年の補正予算は20兆円は必要だということです。今年10兆円として、来年さらに10兆円ということでも良いとは思いますが、財務省の2兆円というのは、桁違いと言ってもよいほどのものに過ぎません。

財務省の言いなりでは、物価目標2%も達成できず、デフレからの完全脱却も望めません。このようなことで良いわけがありません。

しかし、なぜこのようになるかといえば、当初予算で絞り、補正予算で復活させることで要求官庁が「恩義」を感じるように仕組んでいるだけなのです。

もちろん「恩義」のお返しには、要求官庁傘下の機関への天下りがあることを忘れてはいけないのです。


デフレ脱却は多くの国民の要望だと思います。そのように要望していない人でも、デフレが自分の生活にどのような悪影響を及ぼしているかを知れば、デフレ脱却を望む人がほとんどだと思います。

さて、このような財務省が社会においてリーダー的階層にある正当性はあるのでしょうか。

これについては、マネジメント的側面から考えてみましょう。
社会においてリーダー的な階層にあるということは、本来の機能を果たすだけではすまないということである。成果をあげるだけでは不十分である。正統性が要求される。社会から、正統なものとしてその存在を是認されなければならない。(『マネジメント──基本と原則[エッセンシャル版]』)
企業、政府機関、非営利組織など、あらゆる組織(当然財務省も含む)にとって、本来の機能とは、社会のニーズを事業上の機会に転換することである。つまり、市場と個人のニーズ、消費者と従業員のニーズを予期し、識別し、満足させることです。財務省の本来の機能は、国民のニーズを予期し、識別し、満足させることです。

さらに具体的にいうならば、それぞれの本業において最高の財・サービスを生み出し、そこに働く人たちに対し、生計の資にとどまらず、社会的な絆、位置、役割を与えることです。

しかしドラッカーは、これらのものは、それぞれの組織にとって存在の理由ではあっても、活動を遂行するうえで必要とされる権限の根拠とはなりえないとしています。神の子とはいえなくとも、少なくともどなたかのお子さんである貴重な存在たる人間に対し、ああせい、こうせいと言いえるだけの権限は与えないというのです。

ここにおいて、存在の理由に加えて必要とされるものが、正統性です。「正統性とは曖昧なコンセプトである。厳密に定義することはできない。しかし、それは決定的に重要である」とドラッカーは述べています。

かつて権限は、腕力と血統を根拠として行使された。近くは、投票と試験と所有権を根拠として行使されています。

そうして、財務省は官僚組織であり、官僚は試験によって選抜されます。政府を構成するのは、国会議員であって、国会議員は選挙によって選ばれます。

選挙によって、選抜されるということは、国民の信託を受けているということです。国民の信託を受けた人で構成される政府は、本来官僚よりも政治において、より正当性が高いはすです。

それにも元々、財務省は政府の一下部機関に過ぎません。会社でいえば、政府は取締役会のようなものであり、財務省は財務部のような存在です。そのような財務省が政府をさておいて、補正予算の規模を定めるようなことをするのは明らかに権限の逸脱です。

そうして、ドラッカーは、マネジメントがその権限を行使するには、権限の根拠としてこれらのものでは不足だといいます。

社会と個人のニーズの充足において成果を上げることさえ、権限に正統性は与えないのです。一応、説明はしてくれます。だが、それだけでは不足なのです。腹の底から納得はされないです。

マネジメントの権限が認知されるには、所有権を超えた正統性、すなわち組織なるものの特質、すなわち人間の特質に基づく正統性が必要とされる。
そのような正統性の根拠は一つしかない。すなわち、人の強みを生かすことである。これが組織なるものの特質である。したがって、マネジメントの権限の基盤となるものである。(『マネジメント[エッセンシャル版]』)
では、財務省はこのような正当性を持っているのでしょうか。人の強みを生かすことができているのでしょうか。

おそらく、省内では人の強みを生かすことができているのだと思います。しかし、大きな間違いがあります。財務省は自らの省益にしたがい、人の強みを生かしているだけであって、上部機関である政府や、さらその上の存在である国民のために、組織内の人を強みを生かしてはいません。

このような財務省が日本社会においてリーダー的階層にある正当性は、ないと言わざるを得ません。ましてや、財務省には日本国を統治する正当性などありません。

もともと、財務省は政府の一下部機関に過ぎません。財務官僚が政治に関与したければ、官僚を辞任して、政治家になるべきなのです。そうでなければ、政府の一下部機関として、財務に関しても、政府の目標にしたがい、それを実行するために専門的な見地から、方法を選択することに徹するべきなのです。それで、国が良くなる悪くなるのは、官僚の責任ではありません、あくまで責任は政府にあるのです。

本来、政治に責任のないものが、政治に関与すべきではないのです。

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