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2019年10月23日水曜日

石平手記「天皇陛下は無私だからこそ無敵」―【私の論評】知っておくべき、これからも私達が天皇とともに歩み、「世界史の奇跡」を更新し続けるワケ(゚д゚)!

石平手記「天皇陛下は無私だからこそ無敵」

石平(評論家)

 私は初めて日本の「御代替わり」の光景をこの目で見たのは、来日1年後の1989年、平成元年のことである。

 昭和天皇が崩御され、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の新元号を発表した。その後「大喪の礼」や「即位の礼」など、御代替わりにまつわる一連の儀式が続々と執り行われた。伝統に則ったそれらの厳かな儀式をテレビや新聞で拝見したとき、当時中国人だった私は大きなカルチャーショックを受け、心が強く揺さぶられた。

 来日前から、日本に「天皇」という存在があることは一般的な知識として知っていたが、「即位礼正殿の儀」は特にすばらしかった。多くの外国元首が見守る中、伝統の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を召された天皇陛下(上皇)が高御座に昇られ、即位を内外に宣言された場面を目の当たりにし、一外国人の私は日本の天皇の高貴さと尊厳さ、そして日本という国の奥深さに感銘を受けた。

 そもそも、中国は日本よりもずっと長い歴史と伝統があるはずだが、今となってはその悠長な歴史は単なる「過去」でしかない。ましてや過去の王朝が今も国民に尊敬され、万世一系の伝統を保つことなど、到底ありえない。中国の歴史上、数多くの王朝が存在していたが、それらはすべて消滅して跡形もない。こうした光景を中国で見ることはもはや永遠にできないのだ。

 これに対し、日本の天皇と皇室は、神武天皇以来、126代、2600年以上続いている。このような万世一系の日本の皇室と天皇は、長くても数百年で滅んでしまう中国の王朝といったいどこが違うのか。来日の翌年に日本の御代替りを拝見してから、留学生だった私はずっと、この大いなる問題意識を持っていた。

 留学生活が長くなり、日本の歴史や文化に対する知識と理解が深まっていくにつれ、徐々に、この大いなる疑問を解いてきた気がするが、「日本の天皇の秘密」を自分なりに「分かった!」と思ったのは、来日の5年後に、一般公開された京都御所を訪れ、かつての皇居である施設を拝観したときだった。

 京都御所の中を拝観して、まず驚いたのはその気品の高い質素さである。雄大さや豪華絢爛さにかけては、京都御所は当然、かつての中国皇帝の住まいである紫禁城の比ではない。中国人の目から見れば、京都御所は日本最高位の天皇の住まいにしては質素というよりもむしろ貧相というべきものだ。

 もう一つ驚いたのは、京都御所の無防備さである。深い外堀と高い城壁に囲まれている中国の紫禁城がまさに難攻不落の要塞であるのに比べて、軍事的襲撃を防ぐ機能はほとんどない。軍事的襲撃を防ぐどころか、普通のコソ泥でもあの低い塀を乗り越えてこの「禁裡」(きんり)に簡単に入れるのであろう。小規模の軍勢でも攻めてきたら、御所はまさに裸同然の状態だ。

 しかし、よく考えて見れば、日本の天皇はかつて500年以上にわたってこの京都御所に住んでいたはずだが、別にどこかの軍勢に襲撃されたわけではない。あの大乱世の戦国時代でさえ、どこかの軍事勢力が攻めてきたことは一度もない。

 つまり、日本の天皇と御所は、軍事的に無防備であっても誰かに襲撃される心配はまずない、ということだ。すなわち、少なくとも日本国内においては天皇と皇室に「敵」はいない、だから襲われる心配もない、ということである。

皇居・正殿前の中庭で、古装束姿の宮内庁職員が並び行われた「即位礼正殿の儀」(1990年11月)

 「即位礼正殿の儀」中庭の様子=2019年10月22日、皇居・宮殿(鳥越瑞絵撮影)
 源頼朝であろうと足利尊氏であろうと、織田信長であろうと豊臣秀吉であろうと、圧倒的な軍事力を持っている時の権力者たちに、天皇と皇室を攻めようと考えた人は誰もいない。だからいつの時代でも、天皇と皇室は無防備でありながら常に安全なのだ。

 それでは、どうして日本の天皇と皇室に「敵」はいないのか。実はそれは、中国の皇帝のあり方と比較してみればよく分かる。

 中国の皇帝には常に敵がいる。だからこそ、皇帝の住まいである紫禁城は軍事的要塞であり、紫禁城のある首都・北京自体も高くて分厚い城壁に囲まれている。そして皇帝は親衛隊だけでなく国の軍隊そのものを直轄下において自らの権力基盤にしている。しかし、それでも中国の皇帝は「万世一系」にはならない。一つの王朝が立つと長くて数百年、短くて十数年、必ずやどこかの地方勢力や民衆の反乱が起きて王朝と皇室が潰されてきた。

 それはすなわち中国史上有名な「易姓革命」だが、皇帝の支配下で地方勢力や民衆の反乱が必ず起きる理由は、皇帝と皇室による天下国家の私物化であり、皇帝一族による民衆への抑圧と搾取である。

 皇帝と皇室が天下国家を私物化してうまい汁を吸っていると、「次は俺たちの番だ」と取って代わろうとする勢力が必ず生まれ、天下の万民を長く抑圧して搾取していれば、我慢の限界を超え、民衆の反乱が必ず起きてくるのであろう。

 だから、中国の皇帝と皇室はいくら防備を固めていてもいずれ反乱によって滅ぼされてしまい、皇帝の一族はたいていの場合、皆殺しにされるのだ。

 結局、天下国家を私物化して民衆を抑圧・搾取の対象にしているからこそ、中国の歴代王朝と皇室は常に国内の敵によって滅ぼされる運命にあるが、これこそ、日本の天皇と中国皇帝との大いなる違いの一つだろう。

 中国の皇帝とは違い、日本の天皇と皇室は天下国家を私物化していないし、民衆を抑圧と搾取の対象にしているわけでもない。搾取していないからこそ、皇室は常に財政難を抱え、天皇はあれほど質素な御所をお住まいにしていたのだろう。

 ゆえに、日本の天皇には敵対勢力もいなければ民衆の反乱の標的になることもない。それどころか、最高祭司として常に日本国民全員の幸福をお祈りされ、国民全員にとって守り神であり、感謝と尊敬を捧げる至高の存在なのだ。

 こうしてみると、日本の天皇と皇室は、まさに「無私」だからこそ「無敵」となっているが、「無敵」であるがゆえに、現在に至るまでの「万世一系」を保つことができるのであろう。

「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれる天皇陛下=2019年10月22日、皇居・賢所

 重要なことは、まさにこのような無私の天皇と皇室が頂点に立っているからこそ、日本国民が多くの苦難を乗り越えて一つのまとまりとして存続を保ってきたということだ。そして万世一系の天皇と皇室がコアになっているからこそ、日本の伝統と文化が脈々と受け継がれてきているのであろう。

 そういう意味では、日本国民にとって、天皇と皇室は最も大事にして有り難い存在であることがよく分かるが、再び御代替わりを迎えた今、われわれはもう一度、天皇と皇室の歴史とその有り難さに思いを寄せて、皇室の永続と弥栄(いやさか)を心からお祈りしたい。 

【私の論評】知っておくべき、これからも私達が天皇とともに歩み、「世界史の奇跡」を更新し続けるワケ(゚д゚)!

歴史上、世界各国の多くの皇室(帝室)や王室は悲惨な終わり方をしています。国民や外敵に追放されたり、処刑されたりしました。それは、冒頭の石平氏の記事にもあるとおり、中国も例外ではありません。世界の王朝が頻繁に変わるなかで、日本の皇室だけが万世一系を維持し、天皇は今日、世界に唯一残る「皇帝(emperor)」となっています。その存在は「世界史の奇跡」です。

清王朝の末期、隣国の中国は日本と同じように、皇室を残し、立憲君主制の下、近代化を進めようとしました。しかし、それは失敗しました。いち早く近代化に成功した日本では、皇室が大きな役割を果たしましたが、中国では、皇室が近代化の障害になると見なされました。この違いは、いったい何でしょうか。

石平氏は、これを天皇の「無私」ということにあるのだとしています。私はそうした側面は間違いなくあると思います。ただ、「無私」以外にどのようなことがあるのか、以下に私なりに分析してみようと思います。無論、石平氏は以下のような分析の果に、天皇の「無私」にたどり着いたということだと思いますが、多少教科書的ながら、以下の分析も役立つものと信じたいです。

19世紀末から20世紀初頭、中国では近代化の方法を巡り、立憲派(皇室を残す)と革命派(皇室を残さない)が争いました。


立憲派の代表は康有為や梁啓超ら清王朝の官僚たちで、彼らは当時の中国で、共和制や民主主義を行えば大混乱に陥り、列強の餌食となってしまうので、皇帝制を維持しながら改革を進めていくことを主張しました。彼らは日本やヨーロッパのように、中国にも立憲君主制を根付かせようとしたのです。

一方、革命派の代表は孫文と黄興です。彼らは、清王朝の体制のなかから近代化を行うことは不可能と考え、清を打倒しなければならないと考えました。孫文ら革命派は民族資本家と呼ばれるブルジョワ階級を主な勢力基盤としていました。

孫文と黄興


20世紀に入ると中国でも工業化が進み、ブルジョワ階級が育ちます。孫文は国内の民族資本家や華僑(外国で成功していた民族資本家)の勢力を結集し、革命運動の原動力とします。

民族資本家たちは、清王朝から特権を保証されていた封建諸侯と、利害関係において激しく対立しました。封建諸侯は領土を独占し、民族資本家の商工業にも不当に介入し、税などを巻き上げていました。封建諸侯によって支えられていたのが清王朝であったので、孫文ら革命派・民族資本の勢力にとって、清を倒すことは商工業の自由を獲得するために欠かせないことでした。

清は末期症状のなか、極端な財政難に耐えられず、1911年、幹線鉄道を国有化し、鉄道を保有する民族資本家からこれを没収して財政不足に充てるという強硬手段に出ます。民族資本家は清に怒りを爆発させ、四川で暴動、武昌で蜂起し、辛亥革命となります。彼らは南部地域一帯で、清からの独立を宣言し、南京で孫文を臨時大総統に選出して、中華民国を建国しました。

しかし、清王朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命し、革命の鎮圧を命じます。中国北部で軍事力を有していた地方豪族の軍閥という勢力があり、袁世凱はこの軍閥の領袖でした。彼は大軍を率いて、南京にやってきます。

袁世凱は清の体制内部の要人でありながら、清の命運は長く持たないと考え、新しい中華民国の総統になるほうが得策と判断し、革命派と取引します。袁世凱は「私が清の皇帝を退位させることを条件に、私を中華民国の大総統にせよ」と要請しました。

孫文ら革命派は袁世凱の強大な軍を前に、この要請を受け入れざるをえませんでした。しかし、皇帝を退位させ、清王朝を名実ともに終わらせることができるのは大きな前進と捉えました。

大総統になった袁世凱は宣統帝溥儀を退位させ、1912年、清は滅亡しました。こうして、彼ら中国人は秦の始皇帝から約2100年続いた皇帝制と訣別したのです。

ちなみに、中国史上に登場した皇帝は600人以上にのぼります。中国において、皇帝制を葬るために戦ったのが孫文ら民族主義勢力で、皇帝制を葬ったのは袁世凱ら清王朝内部で特権を享受していた軍閥勢力でした。つまり、清王朝は外から仕掛けられて、中から壊れたと言えます。

宣統帝の退位により、皇帝制は終わりましたが、皇帝制とともにあった封建政治は温存されました。袁世凱が政権を握り、軍閥や封建諸侯の特権を保証しながら、孫文ら民族資本家勢力を弾圧しました。孫文らは強大な軍事力を誇る彼らの敵ではありませんでした。

袁世凱は野心をあらわにします。1915年、皇帝に即位し、国号を中華民国から中華帝国に改めます。年号を洪憲と定め、洪憲皇帝を名乗ります。

何の血統の正統性もない者が突如、皇帝になったことに当時の日本をはじめ、世界各国は驚きましたが、中国では易姓革命の伝統があり、血筋に関係なく実力者が皇帝になってきたので、袁世凱自身、自分が皇帝になるのは当たり前だと考えていました。しかし、袁世凱に対する中国国内から反発は強く、彼はわずか3カ月で退位しました。そして、間もなく、失意のうちに病死します。

袁世凱が病死した後も、軍閥勢力と孫文ら革命派との対立は続き、近代革命は進展しません。第1次世界大戦後、北京の学生が中心となり、五・四運動という反帝国主義運動を展開します。

民衆の政治への関心の高まりを感じた孫文は以後、民衆を取り込み、革命勢力を形成する方針をとります。孫文はそれまで、エリート主義的なブルジョワ革命を目指してきました。しかし、この考え方を変え、民衆全体を取り込み、革命を推進していこうとしたのです。

以後、中国では共産党勢力が急速に拡大し、猛威を振るうようになります。1925年、孫文は「革命いまだ成らず」という有名な言葉を残して、病死します。後継者の蒋介石は孫文と異なり、共産党を危険視し、弾圧します。蒋介石は毛沢東と激しく対立しますが、もはや、共産党の拡大は誰にも止められない状態でした。共産主義者が唱える平等社会が平民たちに広く受け入れられていきます。

中国では、ヨーロッパと異なりブルジョワ市民階級が未成熟でした。皇帝制を打倒した後に、その受け皿となるべき民族資本家たちが国家を強力に牽引していく存在にはなれませんでした。

1912年、辛亥革命で清が倒れたとき、牽引者不在のなかで中国は方向性を失います。秩序がもろくも崩壊し、共産主義が圧倒的多数の貧民の支持を得て勢力を拡大します。つまり、皇帝制崩壊により、中国では共産主義国家の誕生が避けられない事態となっていたのです。

毛沢東(1919年)

日本も中国と同様に、ヨーロッパのようなブルジョワ階級は未成熟でした。代わりに、従来の特権階級であった藩主や武士が近代革命を担いました。

17世紀のイギリス市民革命でも、18世紀のフランス革命でも、国王をはじめ多くの特権階級が処刑されています。フランス革命では、日々の大量処刑を迅速に執行するために、ギロチンが考案されました。ヨーロッパの近代革命は血生臭い暴力が付いて回り、それは中国の易姓革命と同質のものでした。

日本の近代化である明治維新では、そのような血生臭い暴力は最小限に抑えられました。革命への穏健な姿勢が終始貫かれ、日本独自の絶妙なバランス感覚で体制の旧弊を漸次改変しながら、近代化が進められていきました。日本の近代革命は「アンシャン・レジーム(旧体制)」を急進的に打破していく、ヨーロッパ型の近代革命とは根本的に異なっています。

日本の近代化が穏健に進められた背景として、天皇の存在が大きかったと思われます。最後の将軍徳川慶喜は自らの体面を失うことなく、政権から退きました。それは、将軍よりも格上の天皇に、それまで預かっていた政権を返上するという大政奉還の建て前を通すことができたからです。

約270年間続いた江戸の将軍が、薩摩・長州という辺境の家臣に屈服したという恥辱にまみれるならば、幕府勢力は死力を尽くして、革命軍と戦い、血で血を洗う陰惨な内戦に発展した可能性があります。幕府はあくまで大政奉還により、天皇に恭順したのです。超越的な天皇の存在が日本の危機を救いました。

ヨーロッパの民主革命の闘士から見れば、天皇を頂点とする明治の新生国家は、王政復古への逆行と映ったかもしれません。このとき、新生国家を共和制とせず、立憲君主制にしたのは、維新の革命者たちの深遠な知恵でした。

首班や内閣は天皇に対して、責任を負います。そして、彼らは天皇によって大権を与えられます。この大権の実効性を強固なものにするため、多少、天皇を神格化しすぎたというところもあります。しかし、そのような天皇の存在が、困難な改革を実現させるのに大きな役割を果たしたのです。

大政奉還と同様に、廃藩置県は藩の小君主(藩主)たちの実権を天皇に返還させるものでした。封建諸侯である彼らが、自らの特権を手放したのは、彼らよりもずっと身分の低い足軽上がりの革命者(西郷隆盛や大久保利通など)が命じたからではなく、天皇の大命を仰いだからでした。

聖徳記念絵画館壁画「廃藩置県」

武士の忠義からして、天皇の大命には逆らえず、封建時代の実質的な実力者であった彼らのほとんどは潔く身を引いたのです。その潔い精神というものは、他国の特権階級には見られません。彼らの多くは処刑台の前に引きずり出されるまで、悪態をつき、暴言を吐きながら抵抗しました。

日本には、鎌倉幕府から江戸幕府に至るまで、将軍という世俗の権力者の上に、天皇という超越的な存在がありました。この二重権力構造が続き、天皇制が維持されたことが近代日本に幸いしました。日本が過激に社会秩序を崩壊させることなく、緩やかな変革を実現することができた最大の理由がここにあります。

中国は王朝がコロコロ変わる易姓革命を繰り返したため、天皇のような国家の中核存在を持つことができませんでした。維新の革命者が孫文のように共和主義を掲げ、天皇制を廃止していたならば、日本も中国と同じように、無秩序と混乱に陥っていたことでしょう。

われわれの父祖たちは、つねに天皇と共に歴史を歩んできました。これからも、私達は天皇とともに歩み「世界史の奇跡」を更新し続けることになるのです。

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2019年10月22日火曜日

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「国民の幸せと世界の平和を常に願う」 天皇陛下、即位を宣明される 「即位礼正殿の儀」

「即位礼正殿の儀」で、即位を宣明される天皇陛下=22日午後、宮殿・松の間

「即位の礼」の中心儀式「即位礼正殿の儀」が22日、国事行為として皇居・宮殿で執り行われ、天皇陛下は「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と宣明された。

儀式は午後1時過ぎ、約2千人の参列者が見守る中、宮殿「松の間」で始まった。鉦(しょう)の合図で参列者が起立すると、陛下の側近である侍従らにより玉座「高御座(たかみくら)」と隣の「御帳台(みちょうだい)」の帳が開かれた。陛下は古式装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」に身を包まれ、皇后さまは十二単(ひとえ)のお姿。参列者が鼓(こ)を合図に敬礼した後、陛下が即位を宣明された。

陛下はこの中で、上皇さまの在位中のご活動にも触れながら「国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」と述べられた。

儀式では、三種の神器のうち剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)、国の印章「国璽(こくじ)」、天皇の印「御璽(ぎょじ)」が、高御座の「案(あん)」と呼ばれる台に安置された。宮殿内には賓客が両陛下のお姿を見られるようモニター30台が設置された。

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まずは、以下に「即位礼正殿の儀」のノーカット版の動画を掲載させていただきます。


次に、「即位礼正殿の儀」天皇陛下のお言葉を以下に掲載させていただきます。
 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。 
 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御(み)心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。 
 国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
さて、本日は天皇家がいかに長い歴史を持っているか、そうして、その長い歴史にふさわしく、「即位礼正殿の儀」に参加させる代表に各国がどのような人たちを派遣しているのかを掲載します。

『日本書紀』にも掲載されている神武天皇から数えると、日本の天皇家は男系継承で126代、2600年以上も続いてきた計算になります。この数字は、現在続く王室の中で、世界で最長です。

歴史学者の中には、神武天皇が存在したのか否かについて、疑義を抱く人もいるようです。ただし、私自身としては、我が国の天皇は、いつかも定かではないそれくらい古くから存在していたということ自体に畏敬の念を抱かずにはおられません。

神話の世界で語られる神武天皇

では、現在の歴史からいって何代からであれば実在したと疑いなく考えられるのでしょうか。

実はこの点にも議論があって、第10代の崇神(すじん)天皇、第15代の応神(おうじん)天皇、第26代の継体(けいたい)天皇と考える人たちに分かれているとされています。

いずれにせよ第26代の継体天皇が存在したという考えは、考古学的にも確実視されています。ただ、これらの天皇が存在しなかったとか、神武天皇が存在しなかったなどのことも、歴史的に証明されているわけではありません。ただ、文献などで実在が確かめられていないということです。

継体天皇が在位していた時期は6世紀の前半になるとされています。そうなると21世紀前半の現在において天皇家はそのときより15世紀、1,500年間も男系継承されてきたと言えるのです。

継体天皇から見て1,500年という数字であっても、日本の皇室の歴史の長さは世界の王室の中でも世界一なのです。

現憲法の第一条では、

<天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく>(宮内庁のホームページより引用)

とあります。その前の大日本帝国憲法の第一章第三条にも、

<天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス>(大日本帝国憲法より引用)

などと書かれていました。それぞれの憲法は成立の背景も狙いも全く異なりますが、いずれの憲法においても、憲法の一番最初に天皇のことが語らているのです。このことをもってしても、日本国、日本国民と天皇とは不可分といっても良いのです。

「即位礼正殿の儀」に合わせて来日した各国の要人と安倍総理大臣との会談がスタートしました。21日だけでも20ヵ国以上の要人との会談が予定され、25日までに中国の王岐山国家副主席ら50ヵ国の要人との会談に臨みます。

今回の、祝賀外交では、オランダやベルギー、スペイン等、王制、立憲君主制、つまり王様のいる国は高いレベルの人を送ってきています。

イギリスもチャールズ皇太子、サウジアラビアもムハンマド皇太子です。一方、日本と非常に関係の良い米国は、あまり大物とはいえないチャオ運輸長官を派遣しています。とはいいながら、閣僚であることには変わらず、米国側の配慮が感じられます。

チャオ米運輸長官

中国は国家副主席の王岐山氏を、ロシアは、ウマハノフ氏という連邦院の上院の副議長を派遣しました。この人はタタールスタンというトルコ系人の共和国があって、そこの副首相をやっていました。その副首相ですが、日本で言うと副知事くらいです。日本のイメージだと、副知事くらいの人が参議院議員になったようなものです。

平成の即位のときには旧ソ連のルキャノフ氏という連邦院の上院の副議長が来ています。後にこの人がゴルバチョフを追い落とすクーデターを実行し失敗しました。ルキヤノフはゴルバチョフとは大学時代からの親友なので、この人が来てくれると日ソ関係を進め、北方領土交渉を進めるにもいい環境整備になるのではないかと当時は考えられていました。

それと比べると、少し格下の人が送られて来ているということを見ると、いまの日露関係を反映しているということが言えるかもしれません。今回の祝賀外交での日露間はなかなか話が進まないかもしれません。ただし、誰も人が来ないということではないですから、ロシア側の一定の配慮が感じられます。

今回は、24日に韓国のイ・ナギョン首相と安倍総理が会談する予定です。安倍首相との会談で何が出てくるかというところが注目です。会談をした結果、日韓関係がなお厳しいことになる可能性も考えられないことではありません。

「饗宴の儀」は4日間にわたって、22、25、29、31日と行われますが、平成のときには4日間で計7回行われましたが今回は1日1回ということで、招待客も平成のころよりは絞って行われるようです。そういう方向性を現在の皇室は示したいようですし、それを内閣が承認しているということなのでしょう。

いずれにしても、各国とも世界最長の歴史を誇る日本の皇室の「即位礼正殿の儀」に対して、日本と当該国の間が現状がどのような関係にあろうとも、失礼のない程度にある程度以上の格の人物を派遣しているということです。

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2019年5月4日土曜日

一般参賀に14万人 戦争の記憶継承、復興、環境…両陛下に期待の声―【私の論評】あなたは天皇陛下を誤解していないか?

一般参賀に14万人 戦争の記憶継承、復興、環境…両陛下に期待の声

御即位一般参賀のために皇居に入場する人々

2016年11月2日水曜日

天皇陛下発言の政治的利用を許してはならない―【私の論評】マスコミは宮内庁内の非公式組織の情報を垂れ流したことを猛反省すべき(゚д゚)!


独善的な解釈を堂々と掲載する朝日新聞

古森 義久

国際福祉協会の創立60周年記念慈善晩さん会に出席時にダンスを披露される天皇皇后両陛下
写真はブログ管理人挿入 以下同じ

    天皇陛下の「生前譲位」をめぐる議論が波紋を広げている。

この議論において、国民も政治家も絶対に避けるべきなのは、天皇陛下の発言を政治的に利用することだ。ご発言の「真意」なるものを自分の政治的な主張に都合のよいように曲解し、「天皇陛下は実はこう思われているのだ」と断じる政治操作である。

なぜなら、天皇陛下ご自身が日本の政治には直接関与せず、あくまで中立の立場を保たれることが絶対に守られなければならない鉄則だからだ。

日本国憲法第1章「天皇」の第4条は、天皇陛下は「国政に関する機能を有しない」と明記している。天皇は憲法の交付や国会の召集などの国事行為を委ねられていても、それらの行為はすべて「内閣の助言と承認」に基づき、「国民の総意」が大前提とされる。天皇はあくまでも内閣や国民が決めたことの儀礼的な手続きの実施にあたるだけである。つまりは、政治の実権には関わらない「象徴」なのである。

だから今回の「生前譲位」も、天皇陛下は単に自らの譲位を求められただけであり、その背景に政治的な意図や意思があるはずがない。あってはならないのだ。

  久米氏の発言を誘導する菅沼記者

ところが、そうであるにもかかわらず、朝日新聞はその「ご発言」に政治的な意図があると勝手に断じる記事を堂々と載せている。

朝日新聞では10月17日夕刊から「人生の贈りもの わたしの半生」という合計10回からなるインタビュー記事の連載が始まった。登場するのは、テレビやラジオで活躍する久米宏氏(72)である。インタビュアーは朝日新聞記者で「報道ステーション」にも出ていた菅沼栄一郎氏だ。

記事が掲載されていたのは夕刊の文化面である。普通に考えれば、タイトル通り、インタビューされる人物の半生をいろいろな角度から紹介し、文化や芸術という視点からその生き方に光を当てる記事であるはずだ。

ところがこの記事は、冒頭から朝日新聞のお決まりの政治的主張が展開される。以下のような具合である。

――(菅沼記者の質問)やはり、戦後、新憲法世代ですね。

久米宏氏 「日本国憲法はたぶん、日本が世界に誇れる唯一のものだと思うんです。日本という国があってよかったな、と世界の人が思ってくれる要素は何があるかな、と考えると、ウォークマンは作ったりしたけれど。こういう憲法が先進国の中にあるんだ、っていうのは自慢のタネですよ。せっかくの宝ものをなくすことはないと思う」

――先日のラジオで、「生前譲位」会見を取り上げました。天皇陛下の「お言葉」は「今の新しい憲法を守ってください」との意味を含んでいる、と。

「『象徴』という言葉を8回も使っていた。天皇が象徴だというのは現憲法で初めて使われた言葉ですから、国民の総意に基づいた象徴であると、なぜ、これほど繰り返したのか。現憲法を尊重しているからだと思う。

『お言葉』が発表されたのが8月8日でした。広島に原爆が落とされた6日と長崎の9日に挟まれた日を選んだのは、平和を守って欲しい、というメッセージではないか。ぼくの勝手な解釈ですよ。私は、天皇制にはやや疑問を持っていますが、天皇と皇后の大ファンであることは間違いない」

  政治的な意図や思惑を排して議論するべき

まず、菅沼記者が久米氏を誘導する形で、久米氏の憲法論を引き出している。そして久米氏がそれに乗るように、明確な根拠のない独善的な主張を展開している。

久米氏は民放ラジオの番組で、天皇のご発言の本当の意図は憲法改正への反対表明だという“解説”をしたようである。インタビュアーの菅沼記者はその解説を知って、久米氏の言葉を改めて引き出したということだろう。朝日新聞が自分たちの政治的主張を発信するために、久米氏を引っ張り出したのだとも言える。

個人のブログならまだしも、大手全国紙が「天皇の発言にはこんな政治的意図がある」という解釈を堂々と載せている。自分の政治的主張を述べることはもちろん自由である。だが、天皇陛下のご発言に独自に政治的解釈を加え、それをマスコミが大々的に発信するのはプロパガンダであり、デマゴギーである。

これからの天皇のの問題を考え、論じるには、まずこうした政治的な意図や思惑をすべて排することが必要だ。それこそが、健全な民主主義の国のあり方の論議であろう。

【私の論評】マスコミは宮内庁内の非公式組織の情報を垂れ流したことを猛反省すべき(゚д゚)!

上の記事で問題になっている朝日新聞の記事をデジタル版からそのまま引用します。
(人生の贈りもの)わたしの半生 放送人・久米宏:1 72歳
ラジオに戻ってからの発言は、テレビ時代より踏み込んだ「直球」が少なくない
■他の人がやらないことをやっていく 
――生まれたのは戦争が終わる約1年前。戦中派ですか。 
 埼玉県の児玉(現本庄市)という所に疎開して、農家のワラぶき小屋に6人家族で住んでいました。ベニヤ板で半分に仕切られた向こう側には別の家族が住んでいました。近くの川で毎日、シジミをとっていました。「シジミは滋養があるからね」と母親はいつも言っていた。飢え死にはしたくない、と子ども心に思っていたことを、はっきりと覚えています。ただ、戦争の記憶はまるでない。 
 ――やはり、戦後、新憲法世代ですね。 
 日本国憲法はたぶん、日本が世界に誇れる唯一のものだと思うんです。日本という国があって良かったな、と世界の人が思ってくれる要素は何があるかな、と考えると。ウォークマンは作ったりしたけれど。こういう憲法が先進国の中にあるんだ、っていうのは自慢のタネですよ。せっかくの宝ものをなくすことはないと思う。 
 ――先日のラジオで、「生前退位」会見を取り上げました。天皇陛下の「お言葉」は「今の新しい憲法を守ってください」との意味を含んでいる、と。 
 「象徴」という言葉を8回も使っていた。天皇が象徴だというのは現憲法で初めて使われた言葉ですから。国民の総意に基づいた象徴であると、なぜ、これほど繰り返したのか。現憲法を尊重しているからだと思う。 
 「お言葉」が発表されたのが8月8日でした。広島に原爆が落とされた6日と長崎の9日に挟まれた日を選んだのは、平和を守って欲しい、というメッセージではないか。ぼくの勝手な解釈ですよ。私は、天皇制にはやや疑問を持っていますが、天皇と皇后の大ファンであることは間違いない。 
 フィリピンなど、かつての戦地にご夫妻で何度もいらっしゃる。あれは明らかに昭和天皇の贖罪(しょくざい)の旅だ、と、ずっと思いながら見ていました。皇太子時代の家庭教師だったバイニング夫人は徹底したリベラルな人でしたから。全ての日本人のなかで一番リベラルなのは、いまの天皇だと思っています。国旗国歌問題の時に、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」とおっしゃったことがあります。 
 ――放送では「万が一天皇が聞いていたら」と。 
 聞いている可能性はゼロじゃないでしょ。天皇はどんな番組を見たり聞いたりしているかは言わないという、暗黙のルールがあるそうです。本人が聞いているかも知れない、という前提で話したんです。 
 ――その後で、「違うよ久米さん。そんなことは言っていませんよ」と陛下の感想を想像しました。 
 何を話すかはぼくの自由ですから、他の人がやっていないことをやろう、というだけです。そうでないと、この仕事をやっている意味がないじゃないですか。 
 (聞き手・菅沼栄一郎)=全10回

くめ・ひろし 1944年埼玉県生まれ。早大卒業後、TBSに入社。79年フリーに。85~2004年、「ニュースステーション」(テレビ朝日系)。現在は、TBSラジオ「久米宏ラジオなんですけど」、BS日テレ「久米書店」に出演中。
 これは、ブログ冒頭の記事で、古森 義久さんが指摘したように、完璧な天皇陛下の政治利用以外の何者でもありません。完璧な憲法違反です。

特に、久米宏が一番最後に語った、「何を話すかはぼくの自由ですから、他の人がやっていないことをやろう、というだけです。そうでないと、この仕事をやっている意味がないじゃないですか」という発言には驕り高ぶりを感じます。

これは、行間を読みつつ平たく言えば、「何を話すのも自分の自由だ。他の人がやっていないしできない憲法違反でも、自分は敢えてやる。そうでないと、マスコミの仕事をやっている意味がない」といようように読むことが出来ます。

マスコミの人間なら、報道のためには、手段を選ばず、明らかに憲法違反であっても、敢えてやってやると公言しているようなものです。

確かに、マスコミには報道の自由があります。しかし、憲法違反をしてまでの報道はいくらマスコミ関係者であっても、許されるものではありません。

そこには、明らかにマスコミなら報道のためなら何をやっても良い、天皇陛下が語っていない言葉ですら、自分の考えで、おそらくこういうことを考えているのではないかという憶測を語っても許されると考えているようです。大きな間違いです。

無論、久米氏が天皇陛下が心の中でこのような考えをしておられるのではないだろうかという憶測をすること自体は自由です。しかし、それを新聞という公のメディアで、披露するのは明らかな間違いです。しかも、事柄が天皇陛下の政治的意図に関するものであっては、これは明らかに憲法違反といって差し支えないです。

そうして、このような発言を引き出した菅沼記者にも無論問題があるし、それを堂々と新聞に掲載したデスクや、朝日新聞そのものにも大きな問題があります。これは、朝日新聞が自分たちの独自の政治的主張を発信するために、新聞紙面を利用して、明らかに陛下の発言ではない発言を掲載したということです。

それにしても、そもそも「生前退位」という言葉自体が非常に良くありません。非常に不敬な言葉です。

天皇陛下が国民向けビデオメッセージの中で、生前退位の意思を表明されたとして、大きく新聞や、テレビで報道されています。

しかし、陛下はメッセージの中で、退位や生前退位という言葉は使っていません。識者の中には、「生きている間に、という意味で『生前』という言葉を使うのは不敬」という指摘もあります。

宮内庁のホームページでお言葉を述べられる天皇陛下

以下に、天皇陛下のビデオメッセージを掲載させていただきます。



そもそも退位自体に「生きているうちに地位権力を手放す」という意味があり、崩御により皇位継承された場合は退位とは言いません。

現在の日本国憲法や皇室典範では、皇位継承は崩御を前提とし、退位についての規定がありません。

また、生前という言葉には、「亡くなった人が生きていたとき」という意味で使われることが多く、「生前を偲ぶ」「生前の功労により」といった表現で用いられます。現に生きている人に対して「生前」という言葉は通常は使いません。

ご存命中に後継者である皇太子殿下に譲位する、という意味であれば、「退位」もしくは「譲位」と表現すれば趣旨は伝わります。陛下のご意向を最初に報じたNHKが、ニュースの肝である「存命中に」ということを強調するためか、敢えて「生前退位」と表現したために、標準ワードとなってしまいました。

10月28日の段階で、産経新聞だけが、「生前退位」という言葉を使わずに「譲位」ということばを使うことを表明しました。しかし、他のマスコミは未だに「生前退位」という言葉を使っています。

天皇陛下の退位を巡っては、元号をどうするか、不在となる皇太子をどうするか、皇室典範改正か一代限りの特別法制定にすべきかなど、解消すべき政治的課題が多くあります。大きく言えば、法の下の平等や人権に関わる憲法上の問題にも及ぶテーマであり、安倍政権の対応が注目されます。

なぜ、「生前退位」などという不敬な言葉をNHKtが最初につかったのかということも明らかになっていませんが、現在ふりかえつてみると、この「譲位」もしくは、「退位」騒動には最初から不思議なことがあります。

7月14日、ほぼすべての新聞社が“天皇陛下「生前退位」のご意向示す”と一面トップで報じました。

しかし、宮内庁長官も宮内庁次長もその日のうちに「陛下は憲法上、制度や国政に関する発言はしていない」「生前退位について官邸と相談しているということはない」と否定しています。この否定記事は朝日新聞には小さく出ていましたが、ほかの新聞にはすべて、「ご意向がある」ということが一面に出ていました。その場合は、本来は、ニュースソースを明示しなければならないはずです。

各新聞はそれを明示せずに「宮内庁関係者」としています。宮内庁は一つの組織です。組織は一体であり、その最高責任者が「発言はしていない」「相談しているということはない」と言っているのならば、新聞各紙は「ない」ことを一面で報じたことになります。

このような場合は情報源が「宮内庁関係者」という匿名ではあってはいけないはずです。なぜかというと、宮内庁の長官が「否定していること」は事実でした、そうなると宮内庁長官はウソをついている、とすべての新聞が報じることになるわけですから、その根拠となる情報源が匿名の下に隠れてるべきではないのです。

新聞も、テレビも、何か重要なことを報道するのであれば、必ず裏取りをしなければならないはずです。この場合、裏取りをした先の名前を出すべきだし、その名前が出せないというなら最初から報道すべきではありませんでした。

にもかかわらず、報道したのには何が裏があるはずです。それは、宮内庁内の問題ではないかと考えられます。宮内庁の長官をトップとする宮内庁のヒエラルキーの組織ではなく、天皇陛下に近い非公式な組織がそのようなことを言い出したとしか考えられません。

非公式組織は、組織の運営をする上においては、プラスになる場合もあります。しかし、組織として意思を表明するときには、この非公式組織が表にでるようなことがあってはならないです。

それは、会社の組織を考えてもわかります。会社には社長や会長をトップとする、組織図に掲載されている組織の他に、派閥などの非公式な組織があります。日々の運営などをすすめていく上で、この非公式な組織は役立つことも多いです。

たとえば、一昔前の大学病院には、「医局」なる組織がありました。これは、ほとんどの場合非公式な組織です。そうして、医局は多くの場合、名称も何もつけられていない部屋が使われていた事が多いようです。特に「医局」を定めた一般的なルールはありません。非公式の人と人とのつながりです。大学によっては明文化されたものにサインさせたり、名簿を作ることもあるかもしれませんが、それになにか法律的なものが絡むわけではありません。別にその取り決めを破ったからといって契約違反に問われるということはないです。つまり、慣習や因習による人のつながりが中心です。

病院の組織図に「医局」なる言葉が掲載されることは、今も昔もありません。今は、これが多くの病院で廃止されたようで、病院の運営に支障をきたすようなこともあるようです。

ある病院の医局
「医局」は教授の権力の基盤ともなっていましたが、別な側面からみると、新米の医師を育てるなどの役割も担っていました。また、医師不足の地方に医師を送り込む際にも、医局が大きな役割を担っていたこともありました。

現在でも、この非公式組織が残っている大学病院もありますが、完璧に廃止したところもあります。そのようなところでは、地方への医師の派遣が円滑にいかないところもあるようです。

このようなこともあるので、私自身は、正式な組織の中に非公式組織があること自体は否定しません。これは、プラスの面で考えると、正式な組織の中にできる私的なコミュニティーであるとも考えられます。単なる会社の中の仲良しグループだって、非公式な組織であることにはかわりはないですから、このプラスの側面があることからこのブラスの面を助長するものならあるべきだとすら思っています。

しかし、今回のような宮内庁のような組織で、そうして、天皇陛下の「譲位」にかかわるような重大なことで、正式な組織を無視して、非公式組織が、マスコミ等に「譲位のご意向」があるなどと漏らしていいたとしてら、とんでもないことです。

会社であれば、会長、社長、人事部などの会社の組織を無視して、外部の人間に「会長は退任のご意思がある」と漏らすようなものです。これは、まともな組織であれば、禁忌とされるべきものです。この禁忌を破った人間には、厳しい罰が下るのが普通です。

それにしても、宮内庁の中の、非公式組織にはそのような常識もない輩が存在するということです。そうして、そのような輩から、情報を受け、それを報道してしまったマスコミにも大いに罪があります。

ちなみに、外務省出身の佐藤優氏は、この宮内庁の中の非公式組織について次のように語っています。
宮内庁には(正式の組織以外に)もう一つのルートがあるんです。いわゆる奥の院と言われている侍従長です。

表には出てこないことになっている現在の侍従長は、元外務事務次官の河相周夫(かわい・ちかお)さんです。長官と次長が「否定していることが事実ではない」というのなら、新聞はその裏を取らなければ記事にはできません。少なくともこの侍従長に当てて、実名でそれを書かなくてはいけないんです。 
いわゆる天の声をこういう形で出すことで物事を進めようとしているのは、今の一部の宮内庁の人たち──つまり、外務省出身の人たちの動きだと思いますけれど、国家の民主的な統制からすると、ものすごく違和感がありますね。
佐藤優氏にいわせると、宮内庁には元外務省の官僚による、非公式組織があって、それが陛下のあるかないかも定かではない「譲位」の意図をマスコミに漏らしたということです。これが、本当かどうかは確かめようはないですが、どのみち、宮内庁には非公式組織があり、その組織が外部に情報を漏らしたのは確実だと思います。

陛下としては、内部の人間を信頼して、まさか外部に漏れるなどとも考えずに「譲位」の意向など話したのかもしれませんが、もしそうだとすれば、非公式組織の人間は弾劾されるべきです。なぜなら陛下は、日本国内が混乱しないために、火消しのために「ビデオメッセージ」を発信した可能性もあるからです。

いずれにせよ、禁を破った宮内庁の非公式組織に関しては、これは厳しく責任を問い、当然のことながら、この非公式組織は叩き潰すべきでしょう。

マスコミは、朝日新聞のように酷い憲法違反をしたり、見当違いの報道ばかりせずに、宮内庁の非公式組織を徹底的に追求すべきでしょう。

おそらく、新聞やテレビはこれは、しないしそもそもできないでしょう。おそらくこれをするのは、また週刊誌でしょう。

また、マスコミは非公式組織の情報を垂れ流したということで、国民はもとより何よりも天皇陛下に対して謝罪すべきでしょう。

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2016年8月15日月曜日

天皇陛下、「深い反省」再度表明=終戦記念日―【私の論評】沖縄戦で最大の犠牲者を出したのは、実は北海道の将兵(゚д゚)!


全国戦没者追悼式のご出席された天皇皇后両陛下

天皇陛下は15日の全国戦没者追悼式で、昨年に続き「深い反省」との表現をお言葉に盛り込まれた。

追悼式のお言葉は陛下が自ら執筆しており、例年ほぼ同じ表現が続いていた。しかし、戦後70年の昨年は、「さきの大戦に対する深い反省」を中心に新たな文言が盛り込まれた。

今年は全体的に一昨年までの文章に戻す一方で、「過去を顧み、深い反省とともに」と述べ、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願うと続けた。

陛下は1992年に中国を訪れた際や、94年に韓国の大統領を迎えた際の晩さん会のお言葉で、「深い反省」の文言を使ったことがある。

天皇、皇后両陛下は昨年のパラオでの慰霊に続き、今年1月にフィリピンを訪れ、日比双方の戦没者を慰霊している。 

【私の論評】沖縄戦で最大の犠牲者を出したのは、実は北海道の将兵(゚д゚)!

終戦の日というと、最近ではテレビなどでもあまり報道されなくなりました。今年は71年目の終戦記念日です。この日にあたって、こちらは北海道ということもあり、私自身も旭川、札幌、函館と、北海道の三大都市にはすべて住んだ経験もありますので、北海道の戦没者に関する歴史等を掲載しようと思います。

日本が明治維新を迎えた時、世界は酷い状況にありました。獰猛な白人達がアジア・アフリカ諸国のほとんどを植民地にし、その人たちからの富を収奪して豊かな生活を送っていました。


もちろん白人がその文化の高さでアジア・アフリカ諸国を植民地にしたのではなく、砲艦外交、つまり軍艦と軍隊で脅し、時に撃ち殺して植民地にしたのです。

このような時代に明治維新を迎えた日本は、何とかして日本が植民地にならないように頑張りました。そのためには、強い軍隊が必要だったのです。

当時の白人、特にアングロサクソンは極めて征服欲が強く、理屈をいっても通じるような相手ではありませんでした。しかし、軍隊が強ければたとえ小さな国であっても植民地にされるのを防ぐことができたのです。

形式的には、地にはならなかった当時の中国やタイなども外国にかなり干渉されていました。そのため、完全に独力で独立していたのは「日本だけ」といっても間違いではなかったのです。無論、日本は大東亜戦争に敗れて、米軍が進駐してしばらく日本を統治していた時期もありますが、これは日本が米国の植民地であったというわけではありません。

それに、日本は無条件降伏したなどというテレビ報道などを信じこんでしまう人もいますが、これは明らかに間違いです。日本は、ポツダム宣言を条件付きで受諾したのです。これは、本当に先祖に感謝しなければなりません。

日露戦争当時のロシア兵
さて、そんな時代、北海道に入植した日本人が最も恐れたのは北のロシアの侵略でした。ロシアは冬期間にも凍らない港のない国で、何とかそれを手に入れようとして、トルコとクリミア戦争をし、中国では満洲を南下して旅順に軍港を作っていました。隣の国(当時の清国)が弱ると見ると、勝手に隣の国に鉄道を造り、軍港にしてしまうという国だったのです。

ロシアから見ると日本はさらに良いところでした。北海道には、アイヌ人が多かった時代から頻繁に沖合にロシアの船が来ていました。そこで明治政府は日本全体に6個師団あった師団をもう一つ増やして第七師団を北海道の旭川におきました。日本の「北の守り」を第七師団に託したのです.

第七師団が北海道から出たのは日清戦争からですが、その時は師団が旭川から東京に移動したところで日清戦争が終戦を迎えたので、実際には出撃しませんでした。

その後、第七師団は極めて強かったので、日露戦争の時にはもっとも激しかった高地に、その後、ノモンハン事件、さらに太平洋戦争ではあのガダルカナル戦、アッツ島の守備、それに沖縄戦に投入されました。日本人なら誰でもが知っている激戦地に投入されたのです。

ガダルカナルでは、1,507名北海道出身の将兵が戦死、沖縄戦では北海道出身の将兵が約1万人が戦死しています。以下に、大東亜戦争中の北海道出身の将兵の戦没者に関してまとめておきます。
先の太平洋戦争関係で、北海道出身将兵の戦没者:総数は、(109,500名) でした。 最大の犠牲者数が出たのは、沖縄(10,085名) でした。 以下、海上(8,973名),中国(7,671名),フィリッピン(6,117名),日本国内(5,924名),満州(4,421名),ニューギニア(2,813名)、マリアナ諸島(2,219名),ソ連(2,040名),アッツ島(1,571名) ガダルカナル(1,507名) 旭川市の歩兵28連隊・一木連隊,メレヨン島(1,331名) 歩兵26連隊・函館連隊区、樺太(1,398名)歩25連隊・札幌市・月寒連隊等の第88師団、ビルマ(731名),硫黄島(689名),千島列島(546名)以下省略します。
沖縄戦での将兵の全戦死者 95,000名中で、最大比率の10,085名が、北海道出身兵なのです。北海道だけでも、これだけの犠牲者を出した大東亜戦争ですが、戦争が終了する前と、後では、大きく世界が変わり、戦後には植民地はこの世界から消えました。

旧陸軍第七師団の跡地で、現在、陸上自衛隊旭川駐屯地に隣接する「北鎮記念館」
ところで、遠く本州から寒い北海道に入植した屯田兵や第七師団の兵士たちにとって、辛い毎日に勇気をもらい心のよりどころにしたのは神社でした。

屯田兵は旭川神社を作り、第七師団は北海道護国神社を祀りました。そのほかにも石狩川沿いに開発が進むたびに、まず神社を造り、それから活動を開始しました.

人間はそれほど完全なものではありませんから、素晴らしいとされている北海道屯田兵と旭川第七師団の中にも少数ながも「俺たちが国を守っているのだ」という自負が強く、それが「俺たちは国を守っているのだから、威張って良い」という振る舞いをした例もあったのですが、だからといって、屯田兵や師団、それに精神的支柱となった神社の功績が消えるわけではありません。

旭川護国神社
私たちは今、日本が植民地ならなかったことによってアジア諸国の中では最も経済も文化も進んだ国として存在しています。それはかつて、明治維新から太平洋戦争まで自らの命をかけて日本を守りぬいた北海道の旭川のように、北からの脅威に対抗してきた人たちの努力によるものです。

これも多くの誤解があるのですが、大東亜戦争末期に東京や大阪、広島、長崎やその他の大都市が、焼け野が原になったことをもって、日本は戦後ゼロからスタートしたと信じこむ人も多いのですが、それは正しく実体を表していません。

実際、経済指標などを調べると、終戦直後には国富はそれ以前と比較すれば、7割にも減っていましたが、それでも7割です。確かに、都市は焼け野が原となりましたが、北海道の大部分はもとより、全国の農村地帯などが戦災を免れ、そこから戦後の日本はスタートを切ることができました。

そうして、その国富は確かに最盛期と比較すれば、7割にまで減りましたが、当時の特にアジアの他の国と比較すると、国富でトップであり、そこから戦後の日本はスタートしたのです。決してゼロからのスタートではありません。無論現代と単純に比較すれば、質素であったことでしょうが、さりとて、日本が戦後ゼロからスタートというのは、誇張以外の何ものでもないと思います。

その中でも、北海道は石炭などのエネルギー資源、農水産物資源に恵まれており、終戦直後の日本では豊かさを残した地域でした。そのためでしょうか、終戦直後からしばらくは、日本の各地から転入する人が多く、かなり人口が増えていた時期があります。これも、ほとんど忘れ去られた歴史だと思います。

終戦直後の札幌
それに、戦争中や戦争直後など、ご老人たちの昔話を聴いていると、日本のたの地域と比較すると、さほど、食料事情が悪くもなかったようでした。

さらに、私の母方祖父の家は当時旭川あったのですが、隣には当時軍神といわれた、加藤隼戦闘隊の加藤隊長の生家だったそうです。そのような環境だったのですが、日米開戦のときには、曽祖父と近所の駐在さんが、「大変だ、米国と戦争をすれば、日本は負けるかもしれない」と議論をしていたのを祖父がはっきり覚えていると語っていました。

“加藤隼戦闘隊”隊長加藤建夫氏
こんなことを考えると、よくテレビなどで、報道されたり、当時の出来事を題材とたドラマなどで、戦中や戦前は軍部が専横した暗黒時代のようにされているのですが、少なくとも当時の札幌はそうではなかったことがうかがい知ることができます。

無論、終戦間際には、さすがに北海道の札幌でも、食糧事情が悪くなったり、戦争遂行のために様々な犠牲があったことでしょうが、かといって、戦中戦前が暗黒時代であったというドラマや、報道など信ぴょう性はいかがなものかと思ってしまいます。

そうして、旭川は、今旭山動物園やラーメン街で有名です.日本が平和で動物園やラーメンが話題になるのは大変に結構なことですが、その平和を築いてくれたかつての人たち、そしてそれを支えてくださった神社に対してわたくしたちは深く感謝しなければならないでしょう。

そうして、先の大東亜戦争で亡くなられた、北海道の将兵、全国の将兵の方々のご冥福をお祈りいたします。

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2016年8月4日木曜日

【御譲位】天皇陛下のお気持ち、ビデオメッセージで表明へ 8日の午後で最終調整―【私の論評】陛下の御心にかなうことを願い、静かにお見守りすることこそ私達のすべきこと!

【御譲位】天皇陛下のお気持ち、ビデオメッセージで表明へ 8日の午後で最終調整

天皇皇后両陛下
天皇陛下の「御譲位(原文は"生前退位"となっていましたが、この言葉は不尊であるため御譲位としました。以下同じ)」をめぐり、陛下ご自身がお気持ちを表明される方法について、宮内庁は、ビデオメッセージによって国民に示す方向で調整していることが4日、同庁関係者への取材で分かった。日時については8日の午後を軸に最終的な調整を進めている。

陛下が映像を通じて気持ちを示すのは、東日本大震災の発生から5日後の平成23年3月にビデオメッセージを発されて以来2回目となる。収録の際には、陛下が事前に宮内庁幹部と協議を重ね、用意した文書を読み上げられる形になる。

憲法を踏まえ、御譲位を明言する形にはならないが、象徴天皇としての今後の公務への向き合い方などについて、思いを語られるとみられる。

インドを訪問された天皇皇后両陛下
御譲位をめぐる法整備の動きが7月に表面化してから国民の関心が高まっており、誤解のないように自らの言葉で真意を伝えられるビデオメッセージを選択されたとみられる。

皇室典範には生前退位の規定はなく、実現には法改正や特別立法が必要。政府は既に極秘チームをつくって水面下で検討を進めており、気持ちの表明を受けて、本格的な議論を進めることになりそうだ。

陛下は「象徴としての地位と活動は一体不離」との姿勢を信条としており、将来的に加齢などによって公務を全うできなくなった場合には退位もやむなしと考えているとされ、皇后さまや皇太子さまら近しい人々には明かされていた。

宮内庁幹部はメッセージについて「こうした思いがにじむものになるだろう」と話している。

【私の論評】陛下の御心にかなうことを願い、静かにお見守りすることこそ私達のすべきこと!

ブログ冒頭の記事にもあったように、天皇陛下に於かれましては、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故という未曾有の天災と人災に対して、宮内庁を通じ日本国民と世界に向けてビデオメッセージを賜りました。そのビデオメッセージを以下に掲載します。


このような、陛下の御心が、再び8日午後に表明される運びとなりました。

天皇陛下の御譲位についての話が沸き起こったのは、先月の7月13日頃でした。この時から、何度も似たような報道が繰り返されました。

本当に天皇陛下の御心(みこころ)を考えての話かと考えてしまうような、好き勝手な言葉をメディアは、並べたてました。これには、本当に閉口してしまいました。

そうして、この一連のスクープ報道は出処が一切明らかにされていません。これは、本来、公表されないはずの陛下の内心、もしくは公表されない前提の陛下の「つぶやき」が何者かによって公表されてしまったというのが真相のようです。


ところで、陛下の現在のご年齢は82歳です。しかも、今までに何度も体調を崩されておられます。

大きなものでは癌、そうして心臓疾患に関するご病気についても報道されていました。だからこそ、個人的心情からは、もうよいのではないか。これ以上大変な思いをさせることはないのではないかと思います。

しかし、天皇陛下の御譲位に関する、発言は、天皇陛下の政治的言動を禁じた日本国憲法に触れる可能性ありとの声も聞こえます。

おそらくはこれは、日本国憲法第4条第1項のを論拠としていものと思われます。この条項では、天皇陛下は憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しないとあり、天皇陛下の権限、職権の範囲が定められています。

だから、天皇陛下御自身が御譲位の意志を言葉にすることは国事行為以外の話であるから、憲法に抵触すると言いたいようです。

南阿蘇村の被災地をご慰問された天皇、皇后両陛下
また、現在の退位の条件は皇室典範では以下のように定められています。
天皇陛下の退位は基本的に現在の御代における今上陛下 (現在の天皇陛下)として崩御された時に起こり得るもの。
したがって皇室全般の皇位継承から始まる『皇室典範』を修正しないことには、天皇陛下の宸襟(しんきん)を悩ます問題の解決には至らないのです。

皇室典範の構成は次のとおりです。

皇室典範・・構成章》
第1章  皇位継承
第2章  皇族
第3章  摂政
第4章  成年、敬稱、卽位の礼、大喪の礼、皇統譜及び陵墓
第5章  皇室会議
退位に関する皇室典範の第1章での記述は以下です。
第4条  天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに卽位する
この第4条では天皇が御崩御の際に皇統のしかるべき後継ぎが天皇陛下として即位するとしか表していないのです。それ以外の手段は別に定める処置を行わねば、現在のところ天皇陛下御自身の思いだけでは、御譲位を行うことができないのです。

これは、天皇陛下の政治利用を防ぐための、定めといわれています。

しかし今回の場合はおそらく、象徴天皇と言われる現天皇制の政治的活動の強化に結び付くものではないようです。もっと、寛容に見ることはできないのでしょうか。

パラオをご訪問された天皇皇后両陛下
陛下は、日々公務でお疲れであろうと考えられますし、またご多忙を極める公務の執行に不具合が生じてはならぬとの思いからお悩みになった結果のものと忖度できます。

ただ、ビデオメッセージでの「お気持ち」の表明は直接的な言及はない可能性が高いと考えられます。

では、どうすればよいのでしょうか。憲法の趣旨からして、天皇陛下の「御意向」が政治を動かすことは許されません。だからこそ、スクープは真偽不明なものとした上で、それとは別に政府が独自の判断で御譲位を実現させる動きをするか否かにかかっているのです。

そうして、御譲位に関しては、将来も見据えた形で行わなければならないと思います。将来天皇陛下の政治利用や、将来の天皇陛下が意にそぐわない譲位を強要されるようなことがあってはなりません。それを忖度したうえで、政府が独自の判断で御譲位を実現させるようにすべきです。政府の英断を望みます。

陛下の御心は議論する対象でもなければ、断定すべきものでもありません。一人一人が忖度(そんたく)して、陛下の御心にかなうことを願い、静かにお見守りすることこそが肝要なことであると思います。




【関連図書】


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